発展期栄光の協会学校〜西小川町時代の発展〜

明治20年代の中葉から獨逸学者 大村仁太郎 が学校経営と教育指導の中核となった。 品川 や 山脇加藤 らの信頼を受けた若き大村は、知育・体育・徳育の三育にわたり獨協生を全力で育成し、成果を急速にあげはじめた。獨逸語受験の特典を生かし超一流進学校として名をあげた。医歯薬進学の名聞もこのころ全国に拡まった。教師陣は、大村人脈を中心に大学や高等師範・旧制高校・陸軍学校・外語・学習院らの教授を兼任し、学者としてのちに著名な仕事をした人が多かった。


しゃれこんだ巌谷小波(季雄・1902年6月20日・ベルリン)。小波は中学第一期生でユニークな才能をのばし、児童文学と童話の世界で大をなした。

重厚な辞典作りで名をあげた国文学者・帝大教授の芳賀矢一(1902年5月6日・ベルリン)。獨協校歌の作詞校訂者で学習院教授依頼の大村の盟友。

水を得た魚のように大活躍するベルリン留学時代の 大村先生 (明治35年5月)。左から西園寺八郎(公爵・公望嗣子・毛利家出身)、妹婿の白鳥庫吉(東大教授)、大森英太郎(医師)、大村、高橋(東京高師教授)、宮崎兼雄、滝廉太郎(音楽家)、大谷(本願寺僧侶)の8人。

在獨・大村の知友フエン博士が、獨協を通じて日獨永遠の友情を記念した大理石碑文。大村のドイツ語能力と獨逸学への献身がいかに知日派ドイツ人を生み出したか、はかり知れない。

「三太郎」文法書巻末の学校広告。

のちの帝大教授になるレーンホルムは明治20年代初期の獨協教師だった。
上は大村宛の手紙(一部)。
左は「日本文化論」(1896年刊)。

西周 の危篤(明治30年)に際し、授爵・叙勲を運動する 加藤弘之 の榎本宛の手紙。榎本はオランダ留学以来の 西 の友人。(国立国会図書館所蔵)

西周 重態を伝える 加藤弘之 日記(東大百年史編集室蔵)。(明治30年1月29日)。

晩年の 西周

大村に続いて頭角を現わしたドイツ学者 山口小太郎 (左、外語・一高教授)と藤代禎輔(中央、一高教授、京大文学部長)。(明治35年3月5日、ベルリン)。

明治33年の第9回卒業式。明治17年建築の洋館風校舎の前。前列中央は多少老衰の見える加藤弘之校長、左隣りは山脇教頭 (貴族院議員)、その隣りはレーマン(学習院教授)か。加藤の右隣りは大村。大村の後ろは山口小太郎、前列右から3人目は谷口秀太郎。この年度では呉建(医博、東大教授)、小立鉦四郎(南江堂社主)、矢野正雄(瀧渓の子)、椎野孝太郎(満州医大教授)らが卒業生。

品川 の朋友、青木(獨逸学協会第2代委員長)の大村宛の手紙。

※このコーナーの掲載内容は、オリジナル写真集 「目でみる獨協百年 1883-1983」の内容と一部異なる部分があります。また、「獨協百年」(獨協学園百年史編纂委員会発行・全5巻)のグラビア、「獨協中学校・高等学校のあゆみ」(後援会発行)等の内容を活用・引用している部分があります。