変転期輝ける目白台〜明治末から大正へ〜

明治38年3月の5年甲組。当時クラス編成は成績順で甲組は上位者40名で編成。クラス次席も五十音順でなく成績順。この年度では額田晋(東邦大学長)、高木憲次(東大医学部教授)、浜田三郎、馬杉亮、正木俊二(富士見高原療養所長)、森於莵、岩原拓ら、多数の医博を生んでいる。獨協中学の全盛時代。

中学生募集広告。(明治38年3月、語学雑誌)

横浜で発行されていた日本唯一の獨逸語紙。獨協生も愛読した。天野貞祐の卒業式答辞獨文ものった(明治36年11月、語学雑誌)。

大村谷口山口らの自力の出版社・精華書院の移転広告と専修学校生徒募集。教員の中に三並良(獨協一期生で優等生だったがストライキ指導で退学、のち獨協教師、陸軍教授、子規の従兄弟)の名もみえる(明治39年12月)。

獨逸語専修学校の夏期講習会。(明治40年6月、語学雑誌)

獨逸語専修学校には旧制一高生や外語・陸軍諸学校生徒や獨協生らが集まった。

日本海戦を伝える獨逸新聞記事の独文和訳練習(大村)(明治38年7月、語学雑誌)。

※このコーナーの掲載内容は、オリジナル写真集 「目でみる獨協百年 1883-1983」の内容と一部異なる部分があります。また、「獨協百年」(獨協学園百年史編纂委員会発行・全5巻)のグラビア、「獨協中学校・高等学校のあゆみ」(後援会発行)等の内容を活用・引用している部分があります。