変転期輝ける目白台〜明治末から大正へ〜

剣道部は明治後期から大正期にかけて全盛だった。獨協中・旧一高を通じての名選手も多い。磯田仙三郎はその一人。中央は今泉来蔵師範。旧制一高の剣道・ボート・野球・柔道部で目立つ者はたいがい獨協出身だった。バンカラと国権論と近代教養と獨逸風科学精神が、明治獨協生の中で融合していた。

天野貞祐と立沢剛(天野の親友、一高教授)の卒業時の成績表(明治38年)。

額田晋(額田豊の弟、東邦医科大学長)、大野精七(医博、北大教授)、立沢、岩原拓(医博、学校給食理事長)、福島博(獨協理事、獨協史研究者)の成績。

磯田仙三郎(東大医学部卒、女子医大教授、獨協医大学長)の成績表。

小林良正(東大卒、明大・専修大教授、講座派の日本経済史家)の成績表。

福井正憑(医博、中井卓次郎の実兄)、松岡冬樹(柳田国男の甥、東大医学部卒)、角尾普(東大医学部卒、長崎医科大学長、医博の慈・昭和大学長の実兄)の成績表。

5番以下に下ったら野球をやめると父に誓ったという内村祐之(東大医学部卒)の成績表(大正3年)。石橋長英(国際医学協会理事長、獨協医科大初代学長、東大医学部卒)、柳沢包雄(東大医学部卒、石橋の妹婿)、石山福次郎(九州帝大教授)らの成績表(明治44年)。

石橋の友人水原豊(秋桜子)の成績表(東大医学部卒)。

社会学者・学習院大教授の清水幾太郎(4年くり上げで旧制東京高校合格、東大卒)の成績表。


明治20年代末から大正期にかけて、獨協中野球部は大学・高校とも互角に闘う名門チームだった。守山恒太郎をはじめ内村祐之(内村鑑三の嗣子)などの名投手と横瀬庸隆名捕手(井上第一銀行頭取の叔父)を生んだ。天野貞祐も在学中、活躍した。右は「週刊ベースボール」(昭和56年6月1日号)の記事。

  • 守山恒太郎 : 1966年野球殿堂入(一高第二次黄金時代の左名投手)
  • 天野貞祐 : 1973年野球殿堂入(学生野球協会第2代会長)
  • 内村祐之 : 1983年野球殿堂入(第3代プロ野球コミッショナー)

現在野球体育博物館には、野球界に貢献した功労者として野球殿堂入りとなった3人の表彰レリーフ(ブロンズ製胸像額)が飾られ、その名誉が称えられている。

※このコーナーの掲載内容は、オリジナル写真集 「目でみる獨協百年 1883-1983」の内容と一部異なる部分があります。また、「獨協百年」(獨協学園百年史編纂委員会発行・全5巻)のグラビア、「獨協中学校・高等学校のあゆみ」(後援会発行)等の内容を活用・引用している部分があります。