変転期輝ける目白台〜明治末から大正へ〜

物理実験教室(大正8年)。円内は第7代校長・金杉英五郎(慈恵会医科大学長)。

名調子で水準高いユンケルのドイツ語講義(大正8年ごろ)。

婦人問題に関心の強い山脇玄・房子夫妻は、大村が持ち帰ったベーベル婦人論(この下の図)を嗣子謙太郎から借り出した(大正6年11月)。

大村蔵書のベーベル「社会主義婦人論」(1903年・明治36年)。

大正9年4月、語学雑誌。

ドイツ・マルクス主義書の広告。大村らはビスマルク・モルトケ、ゲーテ・シラーのドイツから、新興反体制派の文献も持ち帰らないわけではなかった。しかしその半分は頁開きをしていない。婦人運動家に成長する山口の娘富貴子がすぐれたマルクス経済学者・櫛田民蔵(獨逸語専修学校でも教えた)に嫁していることや、大村父子のベーベル婦人論やエレン・ケイの児童教育論への強い関心に、20世紀の潮流への獨逸学派の連関を読みとることができよう。あるいは平塚定二郎の娘の婦人解放と平和運動への成長や、山脇夫妻の婦人向上運動、謙太郎のイスラム民族運動への接近や、谷口の娘たちの救世軍や実践的キリスト者への昇華にも、同じ歴史動向を認めることができる。

※このコーナーの掲載内容は、オリジナル写真集 「目でみる獨協百年 1883-1983」の内容と一部異なる部分があります。また、「獨協百年」(獨協学園百年史編纂委員会発行・全5巻)のグラビア、「獨協中学校・高等学校のあゆみ」(後援会発行)等の内容を活用・引用している部分があります。