創立期獨逸学協会学校の創立〜1883年10月22日〜

青年の魂をとらえ、力を奮いたたせ、志を身につけさせることに成功した学問と思想が次の時代をにぎる。英学・仏学では明治十年代までに多くのユニークな私学が誕生し、近代化に貢献しはじめている。獨逸学協会が基礎からの正則科と速成の変則科をもつ私学をつくり、獨逸に学ぶ道を明治青年の前に開いたのは、いわば当然であった。獨逸の法律・政経・軍事・医歯薬・科学を吸収するためにも獨逸語学習が不可欠であった。学校開設に奔走した 品川彌二郎 たちが、日本の学風と国体を土台にしてのみ獨逸学を学ぶ意味があることを力説したのに注目しよう。


日本を見続けて立つ
品川彌二郎 銅像(九段坂上)

獨逸学協会学校の設立主旨と協会総会で協会学校設立を宣言する 品川 の大演説を報ずる東京日日新聞(山県系新聞、明治16年9月20日)。


10月22日の開校式を伝える読売新聞(中立系新聞、10月24日)。教師13名。新入生13名は103名の誤り。授業は10月25日より始めた。

獨逸学協会学校設置を報ずる福沢系の時事新報(9月22日)。

協会総会での 品川 演説(東京日日新聞、9月20日)。

協会学校生徒の募集広告
(東京日日新聞、9月28日)。

協会学校生徒の募集広告(東京横浜毎日新聞、9月21日)。協会事務所が麹町区上二番町15番地になっている。

獨逸学協会の事務所移転j広告(時事新報、10月24日

最初の内閣、第1次伊藤内閣の閣員中、半数が獨協会員だった。獨逸学協会の当時の特殊な位置が理解できる。

西校長山脇幹事の名
を報ずる東京日日新聞
(9月29日)。

※このコーナーの掲載内容は、オリジナル写真集 「目でみる獨協百年 1883-1983」の内容と一部異なる部分があります。また、「獨協百年」(獨協学園百年史編纂委員会発行・全5巻)のグラビア、「獨協中学校・高等学校のあゆみ」(後援会発行)等の内容を活用・引用している部分があります。