左にMENUを表示する
上にMENUを表示する
>>戦前編   >>戦後編
戦 後 編

年     代

月     日

獨    協    学    園    史    年    表
昭和20年
(1945)
9月 母校愛に燃える福島嘱託は長野県の帝国女子医学専門学校の疎開先に額田理事(同校創立者)を訪ね、小山理事長の辞意と学校の現状を報告し時局の収拾を乞う。食糧難・交通難・住宅難の当時の旅は並大抵の苦労ではなかった。
10月17日 進駐米軍将校、兵5名および通訳1名を従え、校内全般を巡視。兵器庫より兵器全部を接収し去った。
10月31日 米軍を主体とした世界民主連合軍の占領制作の一貫として「軍国日本」の民主化と平和化を促進するため、陸海軍軍人を本業とした教師を教職から追放。以後、戦争指導者の逮捕や推進者の公職追放が続く。
12月24日 疎開中の小山理事長の委任の下に学校内に緊急評議員会を開き審議の結果、額田吉岡両理事のほか新たに岩原拓、塩沢達三両名を理事に、郷および岩田正道を監事に推し承諾を得た。
12月26日 額田理事邸に役員会を開き互選の結果、額田(東邦医大創設者)を理事長に、吉岡理事(吉岡弥生の嗣子、東京女子医大の理事者)を校長に委嘱、直ちに認可を申請した。この時の評議員は、池田泰雄、岩田正道、岩原拓、岡本芳二郎、小池重、小立鉦四郎、小山松吉、郷昇作、坂口康蔵、佐々木隆興、塩沢達三、島安二郎、田中肥後太郎、田村憲造、高橋明、額田豊、花岡忠男、深水貞吉、福島博、宮下左右輔、武者小路公共、室田魁、森孝三、吉岡正明
昭和21年
(1946)
1月19日 東京都より理事、監事の補欠、新校長の就任等が認可される。
1月 中学教科課程のうち、「軍国日本」の教育路線が濃厚に表出していた教科である修身、国史、地理の授業が対日占領方針のもとで停止された。
4月 獨協同窓生の天野貞祐(京大名誉教授)が旧制第一高等学校長に就任。同校長の位置は近代日本の高等教育機関の中で最高位の教育家のポストとされてきた。
昭和22年
(1947)
昨3月、アメリカ教育使節団が来日、民主日本の教育制度再建のため、6・3制義務教育制度の採用を勧告した。本校も明年4月の新学年よりの実施方を準備。4月15日に新制中学設置を申し渡された。
5月31日 昭和15年戦争期に時潮を批判し、警世の哲人として一歩も引き下がらなかった天野を評議員に加えた。
12月13日 「財団法人獨逸学協会」の名称を「財団法人獨協学園」に変更申請、認可、その登記を完了。校名も「獨協中学校」と改めた。19世紀の獨逸学から20世紀への英米学への、時代の大きな流れの大変貌と世界から孤立し敗北した日獨枢軸への遠慮をこめて、「獨逸学協会」の獨協から、「獨立協和」の獨協へ転身。物資難の中で生徒達はクラブ活動や生徒会に張り切りはじめていた。
昭和23年
(1948)
1月17日 獨協同窓会は会則を変更し、吉岡校長が会長に就任。
3月31日 昨年申請中の新制中学校および高等学校が認可され、民主平和教育の新体制として発足する。とくに高等学校については「今後内容の改善充実につき万全の努力をいたされたい」との注意が東京都からあった。木造老朽校舎(明治35年建築)や教育施設との運動場等の劣悪な条件のためである。
3月 この3月卒業予定の旧制5年の生徒は、新制高校3年に編入可能となる。
10月30日 評議員天野貞祐が第一高等学校長を辞任した。東京帝大(本郷)と一高(駒場)の統合に反対であり、かつ旧制高校のよさを消失させることに納得できなかったためといわれる。その後、日本育英会長に就任した。
昭和24年
(1949)
ここ数年間の教員の生活難(食料・住宅の欠乏と低賃金とインフレ)は、すさまじかった。空教室には数世帯の教員家族がたえず生活していた。戦禍は戦後になって獨協を襲った。学校経営状態は極度に悪く、理事と評議員はいずれも身分・学歴・社会的地位は立派であるが、全力で小私学を背負う人物はいなかった。
3月8日 理事会および懇談会(新富町、河田生販寮)。就業規則の審議および臨時国会で通過した私立学校法制定にともなう財団の寄附行為改正など。
昭和25年
(1950)
5月6日 天野貞祐が吉田茂の強い懇請により第三次吉田改造内閣の文部大臣に就任。獨協同窓会は上野精養軒に新文相を招待し祝賀会を催した。
11月28日 理事会(校長室)。生徒募集難の学校問題について。終了後、中学職員との懇談茶話会。見通しのなさと生活苦から多くの教師は沈滞していた。
12月14日 額田理事長邸に理事会を招集、「財団法人獨協学園を学校法人獨協学園に組織変更するの件」「学校法人獨協学園寄附行為案」を承認。
12月21日 評議員会。学校法人の新評議員は、教職員側からは9月3日校内会議室に全教職員会合の席で投票(総数35名)の結果、定員の倍数を候補者として選出した。島田俊匡27票、宇佐見徳衛18票、片岡懋14票、本山義則10票、永田巌9票、佐藤文男4票(以下略)のうち、理事会は側は、片岡、島田、永田の3教員を選んだ。他の評議員は、市川秀雄、岩田正道、加瀬恭治、肥田秀、布施武雄、柳沢信賢、吉岡正明(同窓会長)、岩原拓、塩沢達三(同窓会副会長)、福島博、天野貞祐、高橋明、武者小路公共、加藤成之。
昭和26年
(1951)
1月30日 学校法人組織変更に関する書類完備、申請。
2月25日 理事職が1名不足につき、評議員福島博を理事に推し手続きを完了。
3月10日 私立学校法第三項の規定により学校法人の認可決定。額田吉岡、岩原、塩沢、福島の5名を理事に、監事に郷、岩田両名決定。この4年間、生徒応募の急減が続き経営危機は深刻化した。しかし在校生は自由と青春を満喫していた。
4月8日 獨協同窓会有志と湘南獨協会共同主催で鎌倉円覚寺に獨協歴代校長ならびに先哲の慰霊法要を行い、終わって懇親会を催す。
4月28日 学校法人獨協学園の第一回の役員会開催。
10月10日 第二回役員会、評議員を投票で決定。吉岡派と額田派の亀裂が拡大か。
12月1日 第三回理事会。理事増員問題につき論議、柳沢・市川両名を候補に。
12月 額田理事長は評議員と理事の辞任を申し出た。
12月4日 評議員会(神田駿河台文化学院応接室)12名出席、委任状6名(額田理事長もその一人)理事は岩原、塩沢、福島は再選、監事に郷、岩田の重任、吉岡校長は留任と決まる。吉岡議長額田豊は理事および評議員をも辞されたき旨を述べたという。私学法や寄附行為にもとる混乱にもおよぶので「譴責」すべき理事に関する規定は新理事に「一任」と決議した。学校法人の切り換えにあたり、額田派と吉岡派の争いが露呈したのであろうか。評議員会のあと懇談会をしたらしい。ところが懇談会の席上、論難がかわされた模様で、結局、3理事ともに留任のまま、吉岡に代わって額田が理事長のままで校長職をとることになった。中学主事本山、高校主事宇佐美、事務主事中条で発足。これを理事会の結論と認定して、吉岡校長が辞意を表明、額田理事長(東邦医大理事長・学長)が代わって校長事務取扱を兼任。敗戦後5年間の学園沈滞を破る改革を強行しはじめた。
昭和27年
(1952)
1月 新体制によって、懸案だった中・高の分裂を解消して一本化する動きが2月に爆発、宇佐美、中条と本山の対立となり本山が退職し、島田俊匡(高校主事)、宇佐美徳衛(中学主事)、中条是修(事務主事)の3主事制による強力体制となった。長い間、理事会と教職員の無為無策によって放置されてきた教職員待遇の改善、教職員の一致団結と研究的な姿勢の確立、生徒教育上の積極的な教員の側の姿勢の打ち出し、校舎や教育設備、教育機材の改善などに関して、強い情熱的な姿勢を打ち出しはじめた。学園債の募集、学園後援会の発足などは、この目的をもって生まれた。公立の新制中学・高校が戦禍と制度改革による混迷から抜け出て、次第に施設を新装あるいは改善しはじめたために、旧態依然たる獨協は危機に陥っていたのである。
1月22日 理事会(学園会議室)この日と26日の2回で理事長留任、新理事の柳沢・市川就任、吉岡校長辞任の決着。
2月9日 緊急理事会(学校債募集の件、寄附金募集の件)学園債は一千万円、寄附金も一千万円とし、校舎新築、設備改善のため実施。
2月18日 寄附行為規定による評議員に関し、中高職員は役員室において公選し、教職員割当の定員の倍数を選出した。佐藤文男(11票)、大久間喜一郎(7票)、宇佐美徳衛(7票)、永井信(7票)で他に二人があがっていた。この時の高校主事は宇佐美、中学主事は佐藤であった。
2月23日 理事会(維持会設立具体化、生徒募集に関する対策)。
3月10日 第9回理事会は、大きな紛糾種をはらんでいる新年度における学園の運営についての議題をもっていたのだが、理事の出席定数にたっせ達せず「流会」となった。以後、3月18日、4月1日の両理事会を額田理事長は欠席している。
4月1日 評議員会、7名出席、委任状5名。額田理事長は欠席。額田の理事長留任、校長事務取扱委嘱の件は決してすんなり進行はしなかったようだ。この時期前後、福島は母校愛からしばしば議長となり、調停に活躍した。会議の終わり頃、島田評議員から「新たに理事に選ばれる際は吉岡前校長を遠慮せられたい」と意見を述べたという。最後に島田評議員(学務主事)から校務報告があった。
5月10日 額田理事長兼校長事務取扱は三主事擁護の方向で動き始める。
5月17日 この日の理事会で評議員決定。加藤成之(東京芸大音楽部長、文化財保護委員)、坂口康蔵(明治35年獨協中卒、医博、国立第一病院長)、天野貞祐(明治39年獨協中卒、文博、京大名誉教授)、高橋明(明治35年獨協中卒、医博、東大名誉教授、東京逓信病院長)、三井高陽(郵政審議会委員)、武者小路公共(日獨協会長)、岩原拓(明治38年獨協中卒、医博、日本学校衛生会理事長、日本学校給食理事長)、郷昇作(明治41年獨協中退、日本鉛管製造所)、塩沢達三(明治39年獨協中卒、東京都民銀行取締、東京漁商業協同組合理事長)、福島博(明治38年獨協中卒、日本病理学会書記)、市川秀雄(大正8年獨協中卒、中央大法学部教授)、岩田正道(明治43年獨協中卒、医博、三井厚生病院長)、植田力(昭和9年獨協中卒、獨協教諭)、鵜沢久雄(大正14年獨協中卒、歯科医)、内海弘(大正7年獨協中卒、医博、飯田橋病院医長)、加瀬恭治(明治43年獨協中卒、医博、内科医、日本医師会常任理事)、鈴木武(大正9年獨協中卒、富士物産取締)、刀根豊太郎(昭和2年獨協中卒、薬局)、肥田秀(明治39年獨協中卒、肥田電気工業社長)、布施武雄(大正8年獨協中卒、軟水工業常務)、不破竜登代(大正10年獨協中卒、三楽病院薬局長)、宝積栄(昭和5年獨協中卒、内科医)、柳沢信賢(明治40年獨協中卒、医博、浅草厚生事業協会理事長)、吉岡正明(明治36年獨協中卒、医博、東京女子医大病院長)、佐藤文男(獨協教諭)、永田巌(大正14年獨協中卒、獨協教諭)、永井信(会計主任、総務主管)。終わって福島から緊急事項として額田理事長校長事務取扱の辞任の件を出した。私的に翻意を申し入れたが聞かれず、慎重審議の結果、市川・郷と福島で役員代表として留任請願をすることを決議した。
5月17日 額田理事長が理事および校長辞任を申し出たのは、急激な教育改革をしめつけと感じた一般教員の反発や、新制中学と新制高校の各校教員が別校のごとくに対立する傾向、および理事会や教員の間における長年の吉岡派・額田派両派の対立にいやけをさしたからだという。
5月18日 第14回役員会(額田吉岡、岩田が欠席)。17日夜の額田博士との市川・郷の会見の模様を報告、審議し、辞任を容れざるをえないと結論し決定した。同時に吉岡理事(同窓会長)の辞任も確認した。結局、市川が校長に、柳沢が理事長代理に選任されることになった。額田博士は自分の経営する東邦医専・薬専では経営と教学の運営・発展に大なる手腕と創造性を発揮したが、母校の零細な中高、しかも経営難の老朽校舎の獨協にては、同窓会幹部、吉岡派の教職員、および組合の反発にあい、大改革と私学復興を成し遂げることはできなかった。額田は昭和9年以前から財団法人獨逸学協会学校中学の評議員であり、昭和10年には、小山松吉理事長司馬亨太郎校長と並んで理事会を構成した。戦後は、学校法人化に努力し、さらに人なきをもって理事長に就任し、混迷の獨協を救済しようと努力を重ねたが、積年の問題点は少しも解決せず、ついに吉岡理事の辞任をともなう形で獨協を離れ、東邦医科大学の経営に専念するに至った。
5月 獨協湘南会の主唱で獨協学園後援会(会長天野貞祐)発起人会が発足。
6月7日 評議員会(出席18名、委任状9名)福島理事から額田理事長兼校長事務取扱の辞任至る経過を述べ、さらにこれに関連して吉岡理事からも辞表が出ており、また岩原、塩沢両理事にも辞意があると報告。岩田、郷2名を理事に追加した。柳沢は理事長に、福島は常任理事となる。肥田・加瀬が監事となる。
6月11日 3主事が重ねて主事の辞表提出。
6月12日 教員組合会議が開催され、3主事に対して「非民主的、非人間的」として非難決議を採択し校長に提出。
6月17日 市川校長は3主事制を廃止。代わって西田卯八(東洋大教授、明治期の獨協中教師で市川の恩師)を教頭に任命。
6月28日 午後ふたたび鎌倉円覚寺に獨協同窓会の有志会合、歴代校長および獨協先哲の法要を行う。
6月 西田新教頭のもとで教務係に大久間喜一郎、安間英雄、植田力、古川成太郎、佐藤文男が選任された。
8月13日 天野貞祐が文相辞任。在任中、学校給食、義務教育国庫負担増大、教科書無償、私学補助、文化財審議会、教育委員会、中央教育審議会などの確立や創設はもっぱら天野の功労であった。問題作『国民実践要領』も発表。
10月4日 PTA(城所英一会長)委員会。PTA追加予算の件や修学旅行(11月6・7日、奥利根方面)に引率者の人員、手当等の件について「紛糾」がみられた。教員間の不統一(旧主事派と新執行部派)が暴露。
10月6日 柳沢理事長と福島理事は、永井総務主事に命じ、西田教頭を東洋大に訪問。旧3主事へ退職を迫る件、緊急職員会開催の件であった。西田は自分の手許であずかり事を鎮めるつもりであった。「時期的にもっとも悪く、学校の評判にさらに大きなマイナスとなるから」という理由であった。
10月9日 理事長と校長は辞職要請に強硬で西田の鎮静案は「失敗」したという。同日、市川校長から宇佐美・中条両名に「6月の組合総会の弾劾決議文および校長に非協力のため」をもって円満退職を求めた。同11日、島田に対し、同様のことがあった。「賛否、是非、二元の対立」を超越して「不二一如の境地」(市川)に進みたいと念願しての事であるという。3名は理由をただしたが書面にての明示はなかった。
10月10日 PTA会長城所英一ら役員(副会長小林勝男、役員日吉稔男、常任委員一同、学級委員全員一同、父兄有志緊急懇談会全員)は、「獨協学園は紛乱に陥り、生徒は学業が身に付きませぬ。お互いに親として憂慮と焦燥に堪えぬ次第であります」として市川現校長にかえ、8月に文書を辞めたばかりの同窓生「天野貞祐先生を校長に迎えた度き熱願」のチラシを父母・生徒・教職員に配布した。「一年の間に3人も校長が代わるようでは万事良くなる事なし。積年の内紛に明け暮れ衰弱、存亡の危機に瀕する獨協」へあえて天野という大物の登場を願うのは、天野の母校獨協が「加速度をもっての崩壊が必至であるあるが故」であると、城所はPTAでも教職員の前でも獅子吼してやまなかった。「田園まさに荒れなんとす、帰りなん、いざ」の心境に天野博士がなることを城所は語り叫び、訴えるのであった。
10月11日 生徒会。校長の出席、3教員かく首の理由の説明を求め紛糾した。
10月6日 理事長・校長側から3人に対し、18日までに退職願を「円満」に出すように書留速達で出す。「右、御提出のないときは、当方にて適当の措置を執らねばなりませんが、それは当方として甚だ遺憾に思いますので、右貴意を得度、其の如き次第です」とあった。
10月17日 3名から来3月31日付で退職する(要求事項・退職金支給、3月までの生活保証など)という承諾があった。
10月28日 理事長、校長側は、内容証明の書留速達にて要求の件は、いずれ理事会での決定を待つとして、10月31日までに10月9日付で退職という文面に書き換えて提出せよと3人に通知した。もし送付なきときは強硬手段に出ると。
10月29日 PTA常任委員会で父兄有志懇談会を結成。
10月30日 3名は、退職強要の理由ならびに退職に関する諸条件を具体的に書面をもって明示するよう要求した。
10月 獨協アーベント(秋の学園文化祭、神田、中央大学講堂)で天野博士講演。生徒会幹部は天野に獨協の危機を説明、新校長としての登場を要請した。天野邸の玄関前に校長就任を願うとして4,5日間、泊まり込んだ生徒も数人現れる始末であった。生徒会側は10月から11月には改革委員会を作り、「獨協にペンペン草をはやすな」をスローガンに市川校長の強硬な抑圧等反対、学園改革を要求して運動した。が、校長退職要求などをも含むため、校長側は十数名の退学を強行したりした。その退学反対署名は400以上集まったという(全校生徒は当時わずか800名)。生徒たちは、このままでは授業も身につかぬと、市川・柳沢執行部の退陣を求めるストライキを企画しはじめた。PTA(城所を指導者とする)は、市川・柳沢を退陣させ、天野博士を校長に迎え、窮地の獨協の新生をはかろうという紛争解決の腹案を作り、意見の一致をみるに至った。天野コールの熱望は、生徒会と生徒から父母・同窓生の間に広がり、ただ生徒会役員とPTA幹部を敵視するだけの無策の強硬突破を企画した執行部を包囲してしまった。
11月1日 第二回父兄有志懇談会。
11月8日 市川校長反対・天野擁立に動いた生徒会が幹部生徒の処分を学校側から受けたことや、3教員の退職強硬反対に動いている事、教職員間が分裂していることなどの現状を憂えた城所らPTA幹部は、全委員会の開催を行った。すでに生徒の転校が数十件も出はじめて父母の焦燥感をあおった。
11月10日 PTAは「獨協学園興隆に関する要望」をもって理事長柳沢、校長市川、常任理事福島らに会見を申し込んだ。「学園混乱以来、理事会と父兄総代との重要な最初の会見であり、或いは最後の会見となるやも知れぬ故、万障繰り合わせの上、是非御参会賜り度し」という強い姿勢を城所はとった。
11月22日 18日の会見は理事側の都合で流れ、本日柳沢、福島、市川の3理事がPTA役員の一部と懇談した。
11月23日 8月に学園顧問に就任したばかりの評議員天野博士と父兄有志は学園講堂で会談した。
11月27日 柳沢信賢理事長は「声明書」をPTA、法人役員等に送付した。市川・柳沢体制反対、天野ラブコールの強大な熱意が、PTAと生徒会をとらえてしまったことを「容易ならぬ事態である」と受けとめた柳沢は、天野市川の密接な関係を強調した。学園が天野の協力と指導を受けた市川校長のもとで「前途洋々たるものを覚える」時に、天野の学識・徳操を崇敬するのあまり、これを愛児の獨協の校長にし、現校長をないがしろにするような「筋違い」が生まれたことを遺憾とすると記している。天野自身の立場も父兄が校長のもとで緊密に学園運営に協力するように望んでいると述べていると指摘もしている。したがって市川校長に要望や不審の点を正せば、市川は欣然として満足のいくように取りはからうのだと述べ、天野市川を信頼していることを強調している。
12月初 PTAからまたまた長文の申し入れ書があった。柳沢・市川らは、天野博士擁立の宣伝文と認識した。
12月3日 天野のPTA側への回答をめぐって学園運営に障害となるなること、理事校長の交代方向も含まれていることなど天野の態度にも疑義ありとして天野邸を訪れたが不在、4日、旅行出発とのことで、福島らは、柳沢理事長の天野宛の質問の書面を夫人に託した。
12月5日 理事会にて、加瀬恭治監事から「PTAからいかかる具体的な文書が出たが、これは明らかに現理事者に対立を示しているといえる。これに対し理事者側がは紛争を乗り切る自信があるか」と質問があった。これに対し市川校長は、今度の入試の志願者もあるので「乗り切れると思う」と答えている。また天野博士から「この問題(3教員処分や生徒処分など)については、一切関与しません。今後、PTAの方が見えても一切面会は致しません。理事諸君は学園の責任者ですから、諸君の手によって遠慮なくやっていただきたい」と現校長と理事にまかせる要旨の回答があったと理事者側から報告があった。しかし天野はさらに「ただ一言したいことは、獨協は大切な時期にあるから、学校はどうなってもよい、ということは考えていただきたくない。また生徒を苦しめるようなことはしないで欲しい」と理事者側に念を押すことも忘れてはいなかった。
12月6日 PTA幹部と肥田・加瀬両監事が会談(神田明神境内)。
12月9日 役員会。6日の両者会談(PTA申し入れ)について。紛争の責任を取って市川校長、柳沢理事長退陣のPTA側の要求をのまざるをえない雰囲気となっていた。法律問題を云々していた市川については名誉校長就任を配慮した。
12月14日 天野貞祐の好意により、私立学校振興会より135万円の借款成立。公立はもとより他の私立に比してはなはなだしく遅れていた教職員の待遇改善、学校施設の充実等をはかる。戦後期の10年間は、自由の雰囲気と民主の活気を身に付け、文化主義の香り高い目白台の伝統の中で、生き生きと育つ獨協生が多かった。生徒会による改革運動とPTAの天野擁立運動が教員一部の改革派と連動した。生徒会は処分を連発強行した市川・柳沢執行部を乗り越え、天野擁立に成功した。柳沢理事長はじめ、監事辞意を表明。改めて天野博士を校長に迎える方向が決定。同窓生坂口康蔵が天野を援け、理事長に就任する方向になった。ここ一ヶ月の加瀬の判断と言動が天野登場を決定づけた。
12月18日 午後、駿河台日本医師会館会議室に評議員会を開き、坂口、柳沢両名が事務引継をなした。武者小路公共が議長。柳沢理事長から、去る10月初め、島田・宇佐美・中条3主事退職に対する生徒の復職運動、PTA会の天野博士を校長に迎えんとする運動が、市川校長の排斥運動に至る経過を詳細に報告した。色々の意見が出た。「かかることを繰り返していては獨協の存立はすこぶる危ない」との強い姿勢を述べる武者小路議長の判断も出た。PTAに対する理事者側の態度につき遺憾の点を述べる理事もあった。「学校当局が消極的な態度に出なければならぬのは、日刊新聞の三面記事になるのを怖れたためだろう」(吉岡元校長)とか、市川名誉校長否認説も2,3発言されたり、天野校長推薦を先に定めないと条件つきの校長交代劇と誤解されるとの発言もあった。「読売新聞に不名誉な記事(名門校紛争で廃校か)が出たので、それを消さなくては」との強い発言もあった。感情・法律問題が入っているので、結局、妥協案で新体制にのぞむことになった。武者小路・坂口康蔵・高橋明・三井高揚の4名と吉岡同窓会長で獨協再建小委員会を作ることになった。天野博士に校長就任を懇請し、柳沢・福島・岩田・郷4理事は辞任すること、退職校長の名誉校長就任を決議し、理事会は監事残留の肥田・加瀬両名が運営し、近く増員することになった。
12月26日 理事会(神田駿河台、日本医師会館)高橋・武者小路を理事にして坂口・天野・岩原に加わった。理事長は天野博士の推薦により坂口博士(東大名誉教授)になった。監事は加藤成之・鈴木武の2名となった。日常の学校法人運営にたずさわり校長を補佐する常任理事として天野は岩原拓を推し一同承認した。
12月27日 天野貞祐が第13代校長に就任。学校内に獨協同窓会総会を開き、天野校長を会長に推し、副会長に坂口康蔵、幹事長に岩原拓(新常任理事)を指名、祝賀懇親会を催す。財政改善、教員の向上、学校と父母との連帯強化、生徒勉学・訓育の向上、応募生徒の拡大に向かって、天野の全力投球が始まった。
昭和28年
(1953)
1月14日 理事会。天野校長から「本年度は余日少なく、かつこの際、急激なる経営方針の改革はいたずらに教職員・生徒に刺激を与える結果となるから、しばらく現状を維持し、来年度より各理事が研究の上、漸次改善していきたい」との所信をのべ一同承認した。天野校長就任時の獨協学園の現況。選任教諭20名、兼任講師16名、専任書記3名、助手3名、嘱託2名、傭員5名、計49名。生徒数は中一・61名、中二・98名、中三・149名、高一・223名、高二・144名、高三・104名。計779名。基本財産としては、土地3270坪(669万円)、建物1222坪(1384万円)、図書2248点(72万円)。授業料収入557万円、入学金12万8千円など。支出は校長給料16万円、専任教諭給292万円、講師給64万円、事務員給51万円、雇人給33万円、賃手当25万円、消耗品18万円、生徒募集金2万5千円、修繕費27万円など。滞納損当料が35万円に達し、退職金も45万円あり、昭和27年度の欠損は都助成金17万円を入れても78万円に達していた。
4月 常任理事岩原拓が天野校長の要請により校長補佐に就任。天野の呼びかけに応ずるかのように東大をはじめ各大学院生などの新進研究者が獨協に馳せ参じた。専任講師として2名、講師として10名の教員が着任した。
5月 評議員会開催。学園近況、昭和27年度収支決算報告、昭和28年度収支予算案、復興計画に伴う借入金の件等の議題について討議した。ついに獨協学園復興計画が誕生した。建築の構想ならびに資金計画が具体化した。
 中学は筑波山へ、高校は昇仙峡へ春季修学旅行を実施。
6月 天野イズムの一面として生徒に対する「徳育」が重視され朝礼が復活した。やさしい語り口、身近なたとえ話、心を打つ問いかけで教員にも説得的な校長訓話が毎週行われることとなる。
7月 野球部は八瀬高に勝ち、卓球部は竹早高、聖学院、隅田川高に勝つ。庭球部は海城高に勝ち、柔道部は都下柔道大会で個人優勝、国体では好成績をおさめた。
8月 いよいよ校舎新築のため獨協学園振興会(会長天野、副会長坂口)が発足。夏期施設として「海の会」を静岡県三津浜に、「山の会」を野尻湖に実施。
9月 村松定孝(のち上智大学)教諭ならびに大久間喜一郎(のち明大教授)教諭に対し、文部省より、研究助成金交付される。
10月22日 天野校長の指導による獨協新生の第一段階の成功を祝しつつ創立70周年祝賀式ならびに新校舎の地鎮祭を施行した。同時に学園新生の喜びと躍動を伝える『七十年』誌(202頁)を刊行した。翌23日には文化祭、続いて24日には体育祭を実施した。天野の経営上、教学上、生徒訓育上の指導者ぶりは学園関係者すべてを感服させてきていた。
11月 しかし近来の物価騰貴によって経営面が非常に逼迫してきたことも明らかになった。このままでは教職員の給与改善(公立はもとより他の私学に比しても大幅の遅れ)、設備充実(同様)はとうてい期待できない。
昭和29年
(1954)
1月8日 京大以来の天野の教え子である町沢直治(元旧制甲南高校教授)が教頭として着任。
4月12日 旧制武蔵野高校教授退職後、昭和15年戦争中教頭となった田村二十一が死去。翌13日、教職員代表ならびに関係生徒が告別式に参列。
5月20日 「同窓会会報」第一号発行。
6月19日 椿山荘において、獨協学園新校舎建設を期し、同窓会総会が開かれた。
10月22日 新校舎屋上において第一期新校舎竣工式挙行。ドイツ大使ならびに同文化部長ロエル、学園役員、同窓生、教職員等多数の参列あり盛会を極める。
 尚、今年度は佐藤常三早大教授による数学特別講義一回、日比谷高校主事森本久次郎による数学特別講義二回、旺文社顧問須藤兼吉による英語特別講義一回、ならびに吉田精一教育大学教授による国語特別講義一回が実施され、進学指導に努力が払われた。また校内にあっても、富岡教諭による獨逸語研究授業、飯田教諭による英語研究授業、北村教諭による数学研究授業等、活発に教科指導研究が行われる。その他、中三、高一、高二生を対象に、独語、英語、数学の三教科にわたり、放課後、学習指導を行った。いずれも天野校長指導のもと、一流学者や教職員による生徒に対する知育面での努力の表れである。
昭和30年
(1955)
教職員の校務分掌を総務部、教務部、指導部、厚生部、図書部の5部に分け、各部長に町沢、大久間、菅原、永田、村松のお各教諭を決定。
5月 住友信託銀行にPTA父母有志の信託預金を積み重ね、一千万円の融資を学園に依頼することになった。
 夏期施設の利用は活発に行われはじめた。海の会は千葉県富浦、社会科は神奈川県、生物科は石廊崎、化学科は新潟県、ワンダーフォーゲル部は上高地、美術部は銚子へと、それぞれの教科ならびに部の特質を生かして活動、多大の成果を得た。いずれも天野イズムによる「体育」面での努力の表れである。
8月9日 校長天野貞祐は、ドイツ連邦共和国への特別の文化的功績を認められて、大統領よりDas Grosse Verdienstkreuz mit Stern(星付大功労十字勲章)を贈られた。また本学園理事石橋長英医博(国際医学協会理事長)には日独文化関係促進に対する功績として、Bundesverdienstkreuz 1.kl.を贈られ、さらに理事長高橋明医博(東大教授)には国際医学協会理会長としての功績を認められてDas Grosse Verdienstkreuz (大功労十字勲章)が贈られた。
9月20日 岩原副校長より松田(実業家)新常任理事の紹介があった。教務に関する管理、人事、庶務を岩原が担当、松田は財務関係を担当。
 本年度特別講義は、矢野健太郎東大助教授(数学)、上田勉東大教授(英語)。
昭和31年
(1956)
1月 学園財政強化を目標に松田と佐藤孝二(前東大教授、学習院大理学部長)が常任理事。当時、理事長は坂口、理事は天野、高橋、結城安次(東京電力常務、貴族院議員、参議院議員)、武者小路、加瀬、内村裕之(東大教授)、石橋長英(国際医学協会理事長)、荘寛、三井高陽、長井亜歴山。
1月14日 校長が参与としての守谷英次を紹介。在来の部長制による機構から学級主管を中心に校務を運用する方針を決めた。学年主任制に改革した。3月初旬より、研数学館教官の数学担当増田(医博)により数学特別授業が行われる。
4月 国語、数学、外国語につき、月例テスト実施に決定、5月より実施する。
4月28日 ドイツ大使の特別配慮により、同国政府より学園建築資金のうち100万円の寄贈を申し出られ、天野校長が大使館に出頭し受領する。
6月9日 私立和光学園、都立井草高校と3校親善の体育大会を行う。
7月 新校舎増築、大学の創立(とりあえずは語学中心と教養諸学の短大)および一流大学進学のための「予備校」新設に協力する目的をもって獨協学園協力会が発足した。私立学校振興会より施設資金5百万円(年利6分)の貸付が決定。
7月25日 子供達の家庭教育は必ず母親の教養の向上と相互話し合いからとの主旨のもとに「母の会」が発足する。会長本田あや。
7月27日 日比谷公会堂において、東京都主催により獨逸スポーツ少年団歓迎の交歓会が催された。本校から獨逸語科生徒約300名出席。高校3年獨逸語科村岡守一が日本少年を代表して獨逸語で歓迎メッセージを述べた。
8月 夏期施設利用とし、海の会は三津浜、社会科は那須開拓調査への研究旅行、生物科は石廊崎、ワンダーフォーゲル部は十和田湖、化学部は関西方面へ行った。
10月8日 新校舎改善に充当する学園債は、2カ年間で580万円になった。外に入学時学債4百万円、寄附金5百万円、昭和27年前以降の学園振興会(同窓会・PTA・学園三者一体)の募金は小計760万円、協力金は120万円などがある。天野の教学における(学問的にもすぐれた教員の採用、カリキュラム充実、生徒への十全な指導など)努力をPTAは全力で支えてきたのであった。
昭和32年
(1957)
2月26日〜28日 ドイツ国テレビ放送を通じて獨協を紹介するため、ドイツ人監督ほか2名が来校。校舎環境、生徒登校時の状況、授業状況等を撮影した。
3月 学園債の募集に関して、評議員会を開催した。中学入試・志願者106、合格者89、入学者80名。高校入試・志願者561、合格者406、手続完了者267、入学者232名であった。当時の事務長高尾嘉四郎(戦前は朝鮮で教師、戦後武蔵大へ)、庶務係長菊川暢純、教務係長高尾嘉四郎、会計係長弥重義三郎。庶務に佐藤さよ子、教務に井田博子と佐藤、会計に浜野浩子、関口幸子、大貫晋一、重広正、七沢紀蔵が職員として働いた。
4月5日 理事長職は坂口から高橋明に交代する。同じく東大名誉教授(医博)である。尚、岩原に代わって加瀬が常任理事となった。副校長制はなくなった。
4月 下旬より校長発意により、勉学習慣をつけるために、教員指導の下に、放課後高校2年生以下に課外学習を開始する。
6月 戦前・戦中の教員幹部として田村教頭を助けてきた永田厳が東京女子医大病院(同窓生で元校長の吉岡が理事)に転勤となった。
6月3日 流感のため中・高の一部が学級閉鎖。
6月14日〜17日 流感のため、ついに全校が臨時休校した。
6月20日 成瀬成勝東大教授が、高三・高二生に対し講演。
9月 去年同様、生徒募集のため、各教員を分担させて区立小学校を訪問して、校長・担任を通じて志願者勧誘を行った。
10月22日 第二期新校舎落成記念式典を挙行。
12月16日〜29日 高三受験講習として、国語、外国語、数学が行われる。
昭和33年
(1958)
1月1日 校長をはじめ学園役員、PTA役員と教職員が新年会を催した。当時のPTAは白津・小島(正副会長、両医師)、益田(順天堂大教授)らが幹部。
3月 中学入試・志願者67名、欠席14、合格51、手続完了者43名。高校入試・志願者645名、欠席30、合格者150、手続完了者221名(内、中学より進学者109名)。私立中学としての維持は天野校長5年目になろうとしている時でも、まだ生徒募集難にかなり苦しんでいたといえよう。新聞雑誌での追加広告(8万2千円)をしたが低調であった。したがって中・高ともの補欠募集せざるを得なかった。しかし結局、中学は1クラス編成の止まった。この4月から、増田昇(医博、研数学館、数学)が専任講師に、万沢遼(後に獨協大副学長)、中田剛直(後に上智大教授)、篠原寛(後の目白中高校長)らが教諭に、戦前来の植田力(和敬塾寮長)は退職、父子二代の同窓生の太田資(理科)は事務(教務、同窓会、PTA)に転属(後に理科教員にもどる)する事になった。
3月30日 高二、高三生に対し、学力補充ならびに受験講習を開始する。
5月13日 天野校長は西ドイツを始め西欧各地の教育および哲学事情の視察のため、午後1時、空路羽田を出発。学園理事、PTA役員、母の会役員、生徒会委員長ならびに教職員代表が見送る(7月3日帰国)。
6月3日 校内対抗競技大会を実施。
7月10日 校長の西欧視察旅行の帰朝歓迎会を椿山荘にて催した。
10月10日 旧中学校舎(338坪)は腐朽が甚だしく、雨漏り・土台の腐朽・硝子戸の破損などが著しい。
10月22日 雨天の下、体育館にて、敗戦後の危機を天野体制で乗り切り獨協新生のなったことを祝賀する創立75周年記念式典を行う。ドイツ大使をはじめ、都下小中学校校長、東京都私立中学高等学校連合会の第四支部関係の校長、PTA会員等、総計およそ5百名におよぶ来賓があり、盛大裡に行われた。終わって椿山荘において祝賀会を催す。『七十五年史』(165頁)が発行された。
昭和34年
(1959)
本年度の生徒総数は1,288名、内訳は中学校5学級238名、高等学校20学級1,050名。
昭和35年
(1960)
4月25日 ドイツ人技術者が3名来校して、天野校長の挨拶を録音した。
7月 学園の夏期施設として、長野県小諸市郊外に七千平米の土地を購入し、ここに中学校の旧校舎を移築した。これは小島英らが幹部となって以来、活発となったPTAから贈呈された。天野校長により「日新寮」と命名された。
7月 西ドイツ国首相アデナウァーの招待で富岡教諭(のち金沢大教授)と生徒9名の合計10名がドイツを2ヶ月視察学習する事になる。一行は7月23日羽田発、9月8日帰国。
8月 西ドイツのベートーベン・ギムナジウムの校長グレンツマンから「日本をどう思うか」の課題のもとに同校生徒の描いた絵画50枚に手紙を添えて送ってきた。これは昨年仁戸田教諭指導の下に「ドイツをどう思うか」の課題のもとに描かせた絵画を同校に送った返礼である。
昭和36年
(1961)
3月 第三期計画の校舎増築工事は竹中工務店の手で昨年8月10日に起工され、3月31日に竣工し、4月5日落成式。
10月 PTAは埼玉県熊谷市郊外の大里郡川本村に約3万二千坪の土地を購入した。水利は多少不便であったが松林の多い緑の中にある。旧中学校舎の一部を移築して合宿所を建てて、その全部を運動場として学校に寄贈した。
昭和37年
(1962)
2月 新講堂(体育館兼用)の建築(3,865万円)は昨年の9月起工された。本年2月に竣工し、3月の卒業式から使用された。
4月15日 熊谷総合運動場に建築された合宿寮の落成式が行われた。天野校長によって「清心寮」と命名された。
10月 80周年記念事業の一つとして、PTAが海浜寮を作って学園に寄附した。千葉県館山市汐見の海岸に敷地430坪の土地を購入(227万円)して夏期施設を建設することになった。、この頃活躍したPTA幹部は寺本幸男、小島、日馬由二郎、近藤市雄。
昭和38年
(1963)
3月14日 戦後ベビー・ブームのあおりの新高校生の膨張から東京都の高校クラス急増対策(助成金490万円)に協力して、増築中であった校舎(地上4階、地下一階)は2月末に竣工(2千百万円)し、落成式を挙行する。
4月 本年度の生徒総数は1,550名、内訳は中学校(10学級)490名、高校(20学級)1,060名。高度経済成長期に私立中学志望は急増した。
昭和39年
(1964)
12月2日 奥田嘱託(同窓会事務担当)死去。昭和15年戦争期の軍事教練教官で、厳しくもあったがユーモアと情愛の深い人物。カイゼルひげも名物であった。
昭和40年
(1965)
11月19日 理事会は、中高教頭伊藤千二(町沢教頭の後任)を副校長として、天野校長補佐の機能を強化することにした。天野(学長、校長)は他に公職も多く、時間的にも中高のことのみに専念できないので、教頭を置かない伊藤副校長、篠原教務主任の体制とした。
昭和41年
(1966)
11月 先般高等学校から提出した昭和40年度学校基本調査が、極めて良好なる故をもって文部大臣から表彰され、東京都知事から伝達される。表彰者は主事高尾嘉四郎(事務長)と主事菊川流暢。
12月5日 中、高校舎に温風暖房装置(PTA幹部の援助が)が竣工。それまでは各室ごとの石炭ダルマ釜の暖房だった。
昭和43年
(1968)
7月 中・高図書館は老朽化し、使用に耐えなくなったので大林組の手で改築する事になり、7月に地鎮祭を行い、直ちに着工する。
11月9日 獨協学園PTA臨時総会。体育祭・文化祭でPTA運営の売店での収益金全額17万4,586円を学友会に寄贈。創立85周年記念図書館充実資金募集(目標額250万円)。15日にPTA会報創刊号が発行。
12月20日 小諸「日新寮」の管理人棟、教員棟の増築完成。
昭和44年
(1969)
1月24日 天野貞祐から図書購入日として50万円の寄附。PTAから小諸日新寮附属建物新築2棟、および図書館充実資金として352万円の寄付。
2月15日 創立85周年記念事業として、述面積約820平方米の図書館棟(2階図書館、1階化学教室)、部室棟の特別教室増築。
4月1日 小池辰雄、獨協大学より中学高等学校副校長として就任(獨大教授兼任)。
7月27日〜8月6日 中学1年生対象に小諸日新寮で3班に分け林間学校開設。
7月28日〜8月4日 中学2、3、高一対象に館山海の家で臨海学校実施。
9月26日 館山「海の家」増築は8百万円で施工、経費は全額PTAから寄贈。
昭和45年
(1970)
2月 中学入試(応募者数326名、定員150名)。高校入試(応募者数713名、定員250名)。
3月30日 天野貞祐を獨協学園の学園長に、また獨協中学高等学校の名誉校長に推戴する事となった。中学校1学年を増設、4学級とする。
3月31日 天野校長を永年支えてきた功労のある高尾嘉四郎事務総長が定年退職。
3月20日〜4月2日 中学校2年修学旅行(四国方面)実施。
3月27日〜4月3日 高等学校2年修学旅行(九州方面)実施。
4月1日 小池辰雄副校長(獨協大学教授)が校長に昇格。青山勉が事務長に就任。
7月25日 高校2年生希望者30名はドイツを中心にヨーロッパ見学旅行に参加。父母会の発起により実施。
10月3.4日 文化祭開催。PTA運営の模擬店は好評で、生徒と父母、教師と父母、父母同士が親睦を深めた。
昭和46年
(1971)
2月 中学入試(応募者数556名)。高校入試(応募者数744名)。
6月30日 期末手当支給に後援会から教職員一人辺り3万円、73人分の寄付。
11月16日 東京都の道路拡張計画の実施に伴い、正門前の道路(目白通り)が現在の十米幅から十八米幅に拡張されることになった。そのため道路に接した校地の一部買収の申し入れがあった。面積合計は131.42平方米(都の実測による)で、買収価格一平方米当たり146,000円。隣家も8坪を残して買収されたので、正門を広くするため、この8坪を購入することになった。
12月30日 期末手当など支給に、後援会より500万円の寄付。
昭和47年
(1972)
2月 中学入試(応募者数801名)。高校入試(応募者数639名)。
5月8日 現在の中学高校校舎は昭和29年9月から同38年1月までに4回にわたって建築されたものであるが、全般的に痛みが烈しく向後4ヵ年ぐらいの目安で逐次新築されることとなる。建築委員会の発足。
5月31日 建築委員会の構成は委員長に小池校長、副委員長に篠原教頭、委員に理事側から加瀬、小島、中井の3理事、須佐、大友、二川の3評議員を、PTA側から鳥海会長、池田副会長、中野副会長の3名、教職員から青山事務長、古川成太郎、神田直人、高梨冨士三郎、新宮譲治、小林昭弘、糸井透の6教諭、以上18名の委員と、相談役として設計者の佐藤鑑を推薦、可決。
7月28日 獨協学園債(20億円)を新たに募集することが理事会で決定。
昭和48年
(1973)
2月 中学入試(応募者数399名)高校入試(応募者数514名)。
2月23日 中学高等学校は本年10月で創立90周年を迎えるので式典経費として300万円を計上。関理事長の依頼で後援会からも同額の資金援助。
9月11日 マラソン大会(狭山湖畔)。PTAは医師2名を派遣。
10月20日 創立90周年記念式典が中学高等学校講堂において盛大に挙行される。
11月3日 獨協学園長、中学高校名誉校長天野貞祐、勲一等旭日大綬章受賞。
12月 理事長石橋長英、ドイツ連邦共和国医師会名誉章を受ける。
昭和49年
(1974)
2月 中学入試(応募者数532名)。高校入試(応募者数516名)。
9月21日・22日 文化祭。会場に当てられた全教室がクラブ同好会の趣向をこらした出品に使われ、体育館では音楽会・外国語劇、グランドでは他校との親善試合。獨協名物のPTA運営の売店は最大のコミュニケーションの場。
昭和50年
(1975)
2月 中学入試(応募者数541名)。高校入試(応募者数520名)。
5月25日 館山海の家改築(PTA850万円寄附)上棟式行われる。
6月30日 休刊していた獨協PTA会報第5号、5年ぶりに発刊される。50年度大学合格者現役142名、既卒者151名計293名、うち獨協医大現役22名、既卒4名計26名、独大、現役67名、既卒28名。
7月20日 「海の家」改築落成式が現地で行われる。
10月4・5日 文化祭。恒例のPTA運営による売店による収益金は生徒会へ寄贈。
昭和51年
(1976)
2月 中学入試(応募者数571名)。高校入試(応募者数414名)。
3月28日 新改築工事の鉄筋コンクリート造三階建延面積約二千平方米、工事費総計三億二千万円。上棟式を兼ね地鎮祭。
5月28日 朝2回にわたり火災事故発生。大事に至らなかったが、夜間警備強化のため警備員3名を採用し、毎夜1名ずつ用務員の外に宿直警備に当たらせる。
7月20日 130名収容が可能の小諸日新寮の新装落成式。
10月16・17日 文化祭。各部門とも向上はめざましく、特に「哲学と思想」、数学同好会など地道な研究の展示がなされ、獨協らしい気品があると好評。PTA運営の不要品の再利用の会は上級生の制服など盛況。
12月10日 東京都より51年度私立高等学校経常費補助金3,054万9,200円、及び51年度私立中学校経常費補助金816万200円、合計3,870万9,400円の交付決定通知を受ける。
昭和52年
(1977)
1月14日 私学補助金の配分は教職員待遇改善に1,865万円、教育研究・経常経費に2,005万9000余円と決定。第二期の各教室天井張替、黒板照明等に要した工費1億6,500万、更に第三期の消防署査察による緊急工事工費約3,950万円を理事会で承認。
2月 中学入試(応募者数713名)、高校入試(応募者数348名)。
12月16日 PTAから「海の家」管理人棟新築に要する資金として300万円の寄付申し入れを受け、木造平屋建スレート瓦葺1棟約13.5坪を新築。
昭和53年
(1978)
2月 中学入試(応募者数522名)。高校入試(応募者数383名)。
5月 青山勉事務長の退職に伴い堀尾栄治が事務長に就任。
5月31日 スキー教室等の校外教育施設用地としてPTAから新潟県南魚沼郡塩沢町大字舞子字五十歩所在の原野8,2,81平方米の寄付。
10月14・15日 文化祭。特に今年3回目の「不要品再利用の会」は制服等240点、日用品400点が供出された。日用品雑貨の売れ行きがよく、第一午前中で売り切れの状況。売上金は全額生徒会の活動資金の援助として寄付された。
昭和54年
(1979)
2月 中学入試(応募者数496名)。高校入試(応募者数375名)。
3月31日 小池辰雄校長が停年退職。後任は篠原寛教頭が校長に就任。
5月1日 昨年4月発足の獨協学園百年史編纂委員会(委員長小池辰雄、編纂主任斉藤博)は会報「獨協百年」第一号を刊行。百年史本史刊行を目標に資料蒐集に取り組む(以下、5号までで計2,700頁の資料集となる)。
6月1日 獨協学園創立百年祭実行委員会発足。
9月14日 二川博後援会長、急死され葬儀。小島理事を助けPTAで活躍した。
10月6・7日 文化祭。バザーが行われ会員の手作り品、家庭に埋蔵されているものを寄付頂き大成功裡に幕を閉じた。売上金113万5,450円。
11月28日 中学高校の隣接地、協和銀行所有438平方米を教室増築のため買収したいとかねてより交渉。銀行側の提示価格は2億5千〜3億でなければ交渉に応じないとしているが、極力交渉を進めることに理事会決定をみる。
昭和55年
(1980)
1月25日 交渉の結果協和銀行から正式に条件提示され、2億4千万円にて買収契約を締結することに理事会で決定する。なお後援会長の後任は近藤市雄に。
2月 中学入試(応募者数453名)。高校入試(応募者数261名)。
3月1日 前校長小池辰雄はドイツ大使より第一級功労十字章を授与(多年にわたるドイツ語、ドイツ宗教思想史等の研究ならびに紹介)。
3月6日 獨協学園長、中高名誉校長の天野貞祐先生は95歳の天寿を全うされた。跡を追うように14日、功労者の前常任理事小島英が死去。
3月19日 中学校卒業式挙行。卒業者全員によるドイツ語のシラー「歓喜」の合唱に式場を埋める父母は感慨一入りであった。
3月25日 天野学長の中学高校お別れ式が、学園葬に先立ち、長年親しく生徒に語りかけられた講堂に御遺霊をお迎えして厳粛な雰囲気のうちに執り行われた。午後一時、学園中興の祖と仰がれる故ヨゼフ天野先生の学園葬が東京カテドラル聖マリア大聖堂で参列者3千人により盛大に挙行される。
3月31日 3月末理事会にて、小島常任理事の死去に伴い高橋和秋理事を常任とし、目白中高および埼玉高校担当と決定する。
7月15日 学園最高の功労者である故天野貞祐先生令夫人に対し功労金1千万円を計上、月々25万円宛贈呈を理事会で決定される。
10月11・12日 文化祭。獨協名物のPTA運営になる売店、バザー売上金は250万円と驚異的な伸びをみせた。文化、厚生両委員を中心とした各委員の献身的な協力。収益金は全額施設充実費に組み入れられた。
12月20日 PTA臨時総会、「創立百周年記念事業協力委員会」設置。
昭和56年
(1981)
2月 中学入試(応募者数572名)。高校入試(応募者数611名)。
10月3・4日 文化祭。高校生物部発表の「うに卵に関する研究」と化学部発表の「サビの研究」が日本学生化学奨励賞受賞の栄に輝く。今年は「参加しよう」のテーマで各クラブ同好会・委員会の展示や弁論大会、ピアノ弾き語り、ヴァイオリンリサイタル、外国語劇(英・独語)、吹奏楽演奏、獨協JAM、81コンサート、のどじまん大会、ロックハウス、ライブハウス、寄席目白亭、ダンス講習会、各スポーツ公開試合など、より高度な、より楽しい企画であった。PTA運営の売店、バザーも昨年に増して好成績で、例年通り収益は交友会への補助、クーラー設置、各教室に特製傘立ての設置等、有意義に活用された。
11月25日 現在の中高校舎の敷地が狭いのでグランドの地下に新しく体育館を建設することに決定する。12月20日地鎮祭。57年5月1日着工。
昭和57年
(1982)
2月 中学入試(応募者数636名)。高校入試(応募者数351名)。
3月31日 篠原中高校長は獨協学園本部総務局次長へ配置換(58年3月退職)。後任は蝦名賢造が獨協中学高等長となる(獨大教授を兼任)。
7月21日 学園の発展に尽くされること大の中井卓次郎(同窓会幹事長、学園理事・評議員、顧問を歴任)医博死去。役員としては目白時代、天野校長を助け、大学や医科大の建設にも貢献した。母校愛に燃え獨協生を愛した人だった。
昭和58年
(1983)
4月1日 古川教頭(退職)の後任として高梨冨士三郎、教頭補佐・飯島義信(前教務主任)がそれぞれ新任された。
6月25日 多彩な設備を誇る華麗な百周年記念体育館(11億円)が完成した。
>>戦前編   >>戦後編