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戦 前 編

年     代

月     日

獨    協    学    園    史    年    表
明治3年
(1870)
9月24日 西周(旧津和野藩士、オランダ・ライデン大学留学、沼津兵学校頭取)が沼津より東京へ移住した。近代軍制創設の調査役として、勝海舟から山県有朋に紹介されたためである。兵部省に出仕したが、学制取調をも兼ねた。同僚に矢野玄道、津田真道、神田孝平がいた。最初は、赤松則良の屋敷(神田小川町広小路の角屋敷)に同居したという。赤松は幕臣で蘭学者。江川の門人で砲術家であり、咸臨丸乗船者。オランダ留学、沼津兵学校教授と永年の 西の親友であった。同じく兵部省出仕となり、後、男爵海軍中将、貴族院議員となった。この赤松屋敷はのちの地番では西小川町1丁目1番地であり、獨逸学協会学校の明治17年からの校舎地の文字通り隣接地であった。西周は以降の後半生は主として山県のブレーンとなり、陸軍省および参謀本部にあって智慧袋として活躍することになる。 山県は海舟に会うたびに西周の才能を賞賛し、推薦を感謝していたという。
10月23日 西周は浅草鳥越三筋町に移転し、自宅近所の鳥越門前町の長屋で家塾「育英舎」を開学した。沼津兵学校以来の、主として旧福井藩士たちの教え子の強い希望により、英学、漢学、数学を教授した。幕末期に西周最後の将軍、慶喜に注目されていたし、福井藩主、松平春嶽はとくに西に傾倒していたという。育英舎の塾生規則にもられた知育、体育、徳育の理念は、のちの獨協教育精神の素地となった。そのかたわら「百一新論」「百学連環」「到知啓蒙」「心理学」などを講述。以後数年、明治帝の侍講となる。
明治4年
(1871)
8月22日 育英舎は西小川町の赤松邸へ移転した。英学であったとはいえ、育英舎は獨協学園の遠祖といえよう。この利前後、明六社員(加藤弘之西周、中村正直、津田真道、西村茂樹、福沢諭吉ら)が啓蒙思想家として活躍。
明治7年
(1874)
3月 旧幕臣、大村長衛が私立訓蒙学舎を創設、外国語の教科ありドイツ語も教えた。
明治9年
(1876)
3月 このころ獨逸同学会が生まれる。ドイツへの長期留学者であった品川彌二郎(明治3年〜8年)、青木周蔵(慶応4〜明治7年)、平田東助(明治5年〜9年)、山脇玄(明治3〜10年)、桂太郎(明治3〜6年)らは、北白川宮能久親王(明治3〜10年)を頭にいただき、研究会をおこした。在京者だけで第一回会合を開いた。この獨逸同学会が獨協学園の始源である。
 この時、大久保政権の和魂洋才風の強攻策の右には、時潮を理解し得ず、士族解体の強引な方法に反発し征韓を叫ぶ士族反乱が爆発し、連鎖反応を巻き起こしていた。その左には、英米流やフランス流の洋学と近代論が渦巻いていた。近代化の夜明けは容易に訪れず、政治も経済も混迷と分裂を深めていた。全国の広範な豪農層青年達の洋学学習運動と、旧士族民権家および旧幕以来の洋学者・知識人層の巨大な時代反応とは核融合し、やがて吹き上げ爆発しようとしていた。
明治12年
(1879)
1月15日 この日、獨逸同学会が上野精養軒で開催された。前年暮れの平田宛の書簡によれば、11年7月に獨逸公使館付武官勤務(明治8年より)を終えて帰国した桂太郎を加えての会合であった。幹事役は品川のほか、平田、唐沢、荒川邦蔵、であった。
明治13年
(1880)
9月 獨逸同学会員が上野に集会。協会創設の準備と思われる。
明治14年
(1881)
7月12日 西周は東京師範学校(西が実質上の校長)卒業式で演説した。陸海軍の巨砲巨艦が「国家の用」を利するのと、学士教員が国家の用を利するのは理は同一であるとしつつ、意志なき器械や物を製造する道と、意志あり、情感あり、道理を知りてよく活動し、よく言論する人材を教育する道とは大いに異なると述べている。器械や物は完成の後その姿、内容を改めず、増益、繁殖は、どのように精巧な器械でもないが、人材や知識は、世の模範となることにより人々が相授受しあってやまず、数十人材、数十知識を養成し倍殖し、やがては万倍の利を国にもたらすとした。従って、理はおなじとはいえ、後者の道はより一層重く、一層難い道でもあるという。
9月18日 獨逸学協会が設立された。北白川宮能久親王(会長)、品川彌二郎桂太郎青木周蔵平田東助ら、および加藤弘之山脇玄西周らが主唱し、蘭医や多くの山県系の文武藩閥官僚(県知事、大少書記官層)を会員とした。しかし実力ある官僚中堅層や教師の参加が特徴。第一部(政治・法律・兵事)、第二部(医学・衛生)、第三部(文学・哲学・美学・農工商)に分けた。
 事務所を麹町区富士見町1丁目1番地品川邸内(現品川銅像の脇)におき、のち同区上2番町15番地(青木周蔵邸)に移す。
11月7日 井上毅(参事院議官、長閥系)は三条太政大臣や左右大臣宛で「人心教導意見案」を執筆した。大隈・福沢派や板垣派の民権運動を鎮圧し、不平の徒を押さえ過激論者に先制攻撃をかけるためにも明治政府が人心をつかみきる必要があるとし、そのためには、1.新聞の誘導、牢絡や官報の発行、2.地方士族の把握、3.私学私塾の害を除き、官立の中学、農工の実業学校を奨励、4.英仏の革命精神にあふれた学問を廃し、忠愛恭順の道を教える漢学を興隆、5.従来は医家だけに限られている獨乙学を学習し、保守の気風を形成する必要があるとした。
明治15年
(1882)
3月 伊藤参議らは憲法制度調査のためベルリン、ウィーンへ出発。日本近代化のドイツ国権主義路線が明確となる。
大村はこの年、神田今川小路に私立共立幼稚園を開園、この仁太郎は獨逸語の秀才、12月15日、獨協会員になる。わずか19歳。
明治16年
(1883)
1月 西周が「変則独乙学校を設くる之義」に関して山県参議の名で草稿を作った。議院政体の英国に対する最近の学生・書生の親近感と英学の流行を批判し、日本の国体、国風に近似する立憲君主政体の独乙をむしろ学習すべきであると論じている。明治政府の国体の方針と民間の民権の教育との間に矛盾があるとし、政論の軋轢を憂い、急進論を抑えるためにも、変則獨逸学をもって専門学校を開くべしと主張している。山県西らは北白川宮と獨逸学協会を経営母体とする考えであったようだ。
5月 獨協春季総会。ロエスレル「獨逸学の利害および国家に対するの得失」講演。獨逸学協会の基調方針といえよう。
9月18日 獨協秋季総会。学校開設を決議。「誠と志」の人、品川は設立の主旨を演説し、完成を期する正則(初等・高等からなる)と速成を宗とする変則の2科をつくり、現在の英仏諸学とともに、「我国文明をたすける」のが目的だとした。
10月4日 協会事務所をさらに麹町区5番町13番地(陸軍外人教師館の空屋)に移す。山県の肝いりだろう。
10月15日 協会の月刊機関誌「獨逸学協会雑誌」第一号発刊。62頁。編集・鶴岡義五郎、持主・武井五蔵。発行・獨逸学協会。
10月16日 獨逸学協会委員長、品川彌二郎は「獨逸学士養成のため」私立獨逸学校設置を東京府に願い出た。平塚定二郎が奔走。
10月19日 獨逸学協会学校(Die Schule des Vereins fur deutsche Wissenschaften)につき、東京府の認可を受ける。初等、高等の2科(定員300名)をおき、各科修業年限を3カ年とした。和漢文の外はドイツ語をもって教授するとした。校長・西周、幹事・山脇玄。ドイツ本国から直接に招いたドイツ人をはじめ有能な教授が多く、当時でも目立つ存在の私学だった。志願者中の及第生は100名余。
10月22日 仮開校式挙行(2時〜5時)。北白川宮が親臨した。品川が創立委員長として祝辞朗読、西校長が演説を行う。
北白川宮の祝辞(品川が捧読)は「欧米の学術は文明開化の種子であるが、そのすべてが日本の実用に合うわけでない。今日の急務として日本の国風に合う学術を選び、我国学風を養成すべきである」と述べた。西は、智・徳・体の3育の養成が必要であるとし、志を立て、身体を強健に、よく勉強し、すべてに専心注意し、放心惰慢におちいらぬよう、新入生をいましめた。
10月25日 授業が開始される。創立時の敷地坪数は484坪、建物は135坪、束脩(入学金)金1円、授業料月額金1円。
10月 本校設立の話が品川を通じて明治帝の耳に入った。向こう10ヵ年毎年2,400円を下賜される旨、宮内省から通達。
11月30日 学校幹事山脇玄の名で協会学校附属変則科(3ヵ年)の設置願を出す。ドイツ語、地理、歴史、経済の学科目を晩学者に教育するのが目的であった。正則科生48名入学。
12月7日 変則科が認可される。定員50名、束脩金3円、授業料月額・金1円。実際の入学者28名。
明治17年
(1884)
1月19日 獨協主催のラートゲン「行政学総論」講義。以後毎土曜2時15分〜4時15分、会場は加藤弘之の肝入で東大演説堂。
1月26日 獨逸学協会委員会(品川邸)。
2月 獨逸人レーマンを、9月にプッチェルを教員として依嘱。現在生徒総数207名。
5月2日 獨逸学協会委員会。
7月31日 獨逸学協会学校修業式。
10月1日 神田区西小川町1丁目15番地(旧北白川宮邸)に校舎落成し移転した。敷地坪数988坪4合6勺、建坪延458坪2合5勺。校則を変更し、初等、高等の2科を普通科と改め、その修業年限を5年10級とする。
10月2日 山脇玄の届け出た学校規則改正では設立の目的をドイツ学士養成のためドイツ語学、数学、地理、史学、ラテン語、植物、物理、動物、画学、化学、経済学、法律学、政治学、統計学の各科を主とし、かたわらに和漢文を教授することとしている。
9月末の教員。学校設立者、品川彌二郎(当時、農商務大輔、駅逓総官)43歳。校長、西周(元老院議官、参謀本部・文部省御用掛)55歳。ドイツ語教員、平塚定二朗(農商務4等属)25歳。ドイツ語教員、生田堯則(前東大予備門助教授)22歳。ドイツ語教員、木村松太郎(前駅逓総官官房事務取扱)20歳。ドイツ語教員、大井和久(東京外語学校ドイツ語修了)21歳。ドイツ語教員、寺田勇吉(元統計院3等属、東京外語教諭)30歳。ドイツ語教員、藤山治一(5年間ドイツ留学、東京外国語学校御用掛)23歳。数学教員、井口栄治(元攻玉塾教員、県立鹿児島学校教員)24歳。漢学教員、小田深蔵(元外務省ドイツ語学科教授心得、前東京府中学校教諭)38歳。漢学教員。村上珍林(前東京都師範学校教諭)42歳。漢学教員、千馬武雄(司法省出士)36歳。漢学教員。明石孫太郎(前有斐学校教員、集蔵官教員)28歳。ドイツ語地理学教員、レーマン(京都府医学校、東京外国語学校雇入)42歳。ドイツ語教員、プッチェル(ドイツ公使館書記官、東大予備門雇入)。在籍学生は正則生299名、変則生23名。
10月15日 協会秋季総会の画期的講演「獨逸学方針」(ロエスレル)を協会雑誌10月号に掲載。マルクスら過激社会思想の排撃。
12月19日 獨逸学協会委員会。
明治18年
(1885)
2月 牛込区市ヶ谷(佐内坂町21番地)に教師館を新築し、本校外国人講師の寄宿にあてる。入学志願者282名。
5月12日 獨協春季総会(小石川植物園集会所)。北白川宮西(協会学校の内部充実)・加藤(物体学と心性学)・ロエスレル(獨逸学と英国学)の演説があった。5月11日よりヘーリング博士(5月2日来日)の講義開始。
7月 変則科を廃し新たに専修科をおき、その修業年限を3年4級とし、法律及び政治の専門学科を授けた。協会講師ラートゲン(東大教授)が行政学を開講(協会主催)した時に、品川は太政官文書局・制度取調局、参事院、内務省、農商務省等の青年官吏を勧誘してその講義を聞かせ、またその講義録を読習させた。聴講者は百名前後、講義録は250部以上頒布。専修科へ進学の普通科生8名。
9月24日 協会秋季総会。マイエットの「経済論」(比較経済発達史)講演。参会者百余名、平田が会務報告。会員は本会員119名、栄誉会員161名。協会出版物は53冊、発行部数は計4万二千余部に達した。入学者、普通科75名、専修科4名。
9月 獨協主催のラートゲン行政学各論講義「工業および商業政策」始まる。毎週金曜午後7時より9時(協会学校講堂)。
10月12日 法学、行政学、経済学担当教師としてドクトル・ゲヲルヒ・ミハエリス(ベルリン地方裁判所検事局候補官)27歳、10月19日には、ドイツ語、史学担当教師としてヴィルフリード・スピンネル牧師を依嘱。ミハエリスは5年間在任。在校生470名。本年7月限りでプッチェルの教師依嘱を解き、9月10日箕輪醇を任命。本年より司馬亨太郎谷口秀太郎が獨語教師に。
明治19年
(1886)
2月 入学志願者253名、合格入学者113名。この月、明治24年度から入試外語は英語のみとの文相指示が下った。
4月 宮中補助金は廃止となる。藤山教諭排斥の同盟罷業指導で優等生の三並良と向軍治が退学処分された。
11月 文部省から学校費補助金として毎年金1万円ずつ下附される旨、通達。マイエット(大村仁太郎訳)「教育家必携」刊行。
11月5日 紅葉山で大運動会(加藤弘之日記)。年頭、東大総理加藤が森有礼文相から解任。以後、元老院議官・宮中顧問官歴任。
明治20年
(1887)
4月 校長西周は老衰のため辞任、代わって長閥の陸軍少将桂太郎が就任。28日、ドイツ華文字の帽章を制定した。白小倉の夏服も制定。
4月 文部省告示第一号をもって本校を徴兵代11条、第18条ないし20条第3項の官立府県立学校同等の学校と認定。以来本校の校則は文部大臣の認可を経て施行し、ことに普通科に関する教則は第一高等中学校(旧制一高の前身)の審査を受けることとなる。
4月 司法省から法学士養成補助金として毎年2万円を下附される。この年より宣教師エーマン(学習院教授)も獨協で教えた。
5月7日 協会春季総会。協会および学校の事務報告と審議。この前後数年、獨逸語の重要性を論じた上申書草案を大村が幾度か書く。
5月 教則を改正し、ドイツ語の他に英語を課し、普通科(現在の中高)の課程を5カ年5級と定め、第一高等中学校(現在の東大教養部)へ入学すべき生徒と、本校専修科に入るべき生徒を養成。専修科(現在の大学)の課程もまた3カ年3級となし、法律、政治学を教授。最初の3年間の外人教師はミハエリスの他、F・デルブリュック、E・デルブリュックの3博士。生徒数は普通科441名、専修科29名、教職員26名。外人教師については明治7〜18年の獨逸公使青木が条約改正の獨逸法顧問を兼ね斡旋した。
6月7日 協会総会。ミハエリスの「獨協学校生徒養成法」の重要講演。(彼はのち第二帝国崩壊直前の1917年、ドイツ宰相)。
9月27日 協会総会(向カ岡弥生社)。協会学校の校則改正と事務概況(平田報告)とラートゲン演説、テヒュー祝詞。
12月17日 協会学校にて平田東助の「日本文学[人文科学、思想]の方針」講演。同じくミハエリス「兵役に服するの論=国民教育論」演説。日本陸軍における良兵良民の始源であろう。大村が訳出して文部省へ提出。
 この年、私立有得館(英獨逸語専門の予備校、小石川西江戸川町)ができた。若き大村仁太郎(外語助教諭)や平塚定二郎、谷口秀太郎らがドイツ語の教師。後の獨逸講文会や三並良らの壱岐坂夜学とともに学習院生や旧制一高生や獨協生のドイツ語補修のメッカ。
明治21年
(1888)
7月 文部省告示第三号をもって本校専修科を同省令第三号特別認可学校規則に該当するものと認定。同月、卒業式、普通科4名。
8月15日 「獨逸学協会雑誌」第59号発刊。編集・鶴岡義五郎、発行者・益森英亮、発行所・獨逸学協会。
9月 卒業式、専修科13名。いずれも第一回司法省法官と行政官試験(文部高等官)を受験(試験委員は渡辺洪基帝大総長ら帝大教授)、獨文獨逸法試験委員はミハエリス、モッセ、ロエスレルなど協会員。獨協専修科から高級専修科から高級官僚になる道が大きく開かれていた。
 この年、文部省の補助金が減じ1カ年金7千円となる。年末、大村草案の獨逸語第一語学論議が榎本新文相宛で上申。
明治22年
(1889)
7月 卒業式、専修科9名。在校生は専修科63名、普通科440名。10月11日、飛鳥山で大運動会。
10月10日 「獨逸学協会雑誌」の後継誌として「学林」(飯山正秀編集人)第一号(76頁)刊行。獨逸学協会機関誌の性格が希薄となり、文理両部門を含む学術交流誌となる。編集所も牧野書房内。谷本富(品川が招いた教育学者ハウスクネヒト帝大教授門下)が活躍。
 次の3年間の外人教師は判事レーンホルム、ニッポルド博士、ウェルニッケ博士。協会学校卒業生の会として富士見会発足。
明治23年
(1890)
5月18日 獨逸語復活祭(大学講堂)。多数の在日獨逸人学者や青木周蔵らが支援し、大学(医学部・獨法学科)や学習院・獨協生が大挙して盛会。榎本武揚が森文相の後任となり獨逸語否定の新制度は流産となった喜びからである。帝大総長に加藤任命。
7月9日 平田東助大村の肝いりで有得館で獨逸講文会発会。会員300名、外人教師10名が出席。マイエットとエーマンが祝詞。
7月 校長桂太郎と教頭レーンホルムが辞任、帝大総長加藤弘之を校長、山脇玄を教頭に依嘱する。協会幹事は平田東助と中根重一。
9月1日 大村仁太郎が獨協学校教員となる。書記長として教務を主宰した。「学林」編集に佐久間剛蔵・山口小太郎らが参加。
10月 校則を改正し文部大臣の認可をえる。普通科の予備として補充科を新設。「学林」第13号発刊。山口が協会学校教師となる。
明治24年
(1891)
1月 協会学校図書館ができる。大村が蔵書目録を完成。ドイツ語原書(法・経・政・史・文)が特徴。10年後、全1万5千冊に。
3月 文部省と司法省の補助が廃止(帝国議会開催にともない、盛大な民党への防禦策のため一部学校への私立学校保護金をやめた)。
5月6日 松方正義(獨協会員)内閣成立、品川彌二郎(獨協委員長)が内務大臣となる。
7月 専修科卒業生19名。この前後、獨逸国権論に立つスピンネルやシュミーデル牧師の普及福音協会が日獨交流や獨逸語学習の場に。
9月 新たに別科を設け、ドイツ語学篤志者へドイツ語を教授し、上級学校入学の便をはかる。
10月3日 獨協交友会(山脇会長、大村委員長)誕生。在校生の文化活動を指導し、同窓生や教師との連絡もはかる。
明治25年
(1892)
3月 内相品川は、薩長藩閥の選挙干渉への民党・新聞の猛批判の前に、政権内で孤立し責任をとらされ自ら辞任。
4月8日 大津事件で自粛した昨年7月卒業生のため、第4回卒業式を挙行。北白川宮臨席、「泰西の文物に従事すといえども殊に国体を重んじ、皇室を尊び・・・偏ならず奇ならず、才を達し器をなさん。毫も浮華の態のなき、また嘉尚すべきなり」と祝詞を朗読した。
4月14日 交友会運動部、品川沖に潮干狩りに行く。
4月29日 獨逸学協会学校「交友会雑誌」第一号発刊される。編集者・脇屋三郎(のちに救世軍医師)。
10月 第一高等中学校(旧制一高の前身)入学規定第一条により、本校普通科卒業生を該校(2年制)の相当級へ編入する事となる。
10月 普通科および補充科の学科課程を修正し、第一高等中学校の認可をうけた。
10月25日 獨逸学協会学校「交友会雑誌」第二号発刊。
明治26年
(1893)
7月 第一高等中学校医学部と連絡し、本校普通科卒業生を同学部に編入することとなる。
11月28日 校則を改正し、普通科を獨逸学協会学校中学と改称、東京府知事の認可をうけた。大村仁太郎が本校幹事に就任。大村品川の指導を受け加藤の代理となり、山脇を助け活躍した。獨語の天才、大村は教育家、学校経営者としても充実した。
明治27年
(1894)
7月26日 幹事大村仁太郎の名で専修科卒業式の書式変更を届け出た。(この月、箱根で内村鑑三の講演「後生への最大遺物」)。
9月 三太郎文法」の大村谷口山口『獨逸文法教科書』発刊。本書は獨逸語ばかりでなく欧米語学テキストの標準書となった。
明治28年
(1895)
7月 専修科を廃する(旧制帝大・旧制高校の制度が日本近代化の官僚育成機関として完備してきたため、役割を終わったとされた)。
10月28日 獨協会長、陸軍中将・近衛師団長、北白川宮は5月、台湾進駐を命ぜられ、台湾民主国軍ゲリラと激闘を展開していたが、マラリア病にかかり戦病死。享年49歳。幕末維新期の輪王寺宮で江戸を脱出、東武皇帝として東北六藩軍を統括。薩長土肥の官軍と闘う。敗北後、許されドイツ留学、兵学を学習。近代化の混迷と激動を一身に表現した。
明治29年
(1896)
5月2日 卒業式を挙行。明治27年、同28年の法律および政治学専修科卒業生と同27年より29年に至るまでの尋常中学科卒業生との卒業証書授与式。三国干渉への反撥の結果、青木周蔵夫妻に支持されヘーリング、三並、向、和田垣謙三、三好退蔵、司馬亨太郎、丸山通一、巌谷小波、藤代禎輔らが通った獨逸理知神学の普及福音教会が衰退。
明治30年
(1897)
1月29日 西周危篤の報に加藤弘之や榎本武揚らの奔走で西周に対し勲一等、あわせて男爵を授けられる。1月末死去。69歳。
3月13日 普通科の予備として設置された補充科を廃止する。ボート部は天龍・石狩・富士の三艇を最初持ち、額田豊・晋兄弟らが活躍。
3月 品川彌二郎の代理として幹事である大村仁太郎の名義で尋常中学の規則を変更し、東京府知事の認可を受けた。
明治31年
(1898)
10月 加藤が中等教育におけるドイツ語採用軽視を批判して文相に上申した(大村草案)。自力で出版社を創立、獨逸語教科書を出版してきた大村らは月刊「獨逸語学雑誌」を創刊。以後、主筆として大村はドイツ語教育にも全力投球した。
12月 当時、校長加藤弘之(貴族院議員)は無報酬、教頭山脇玄(貴族院議員)も無報酬、幹事大村仁太郎(学習院教授)は俸給50円、エーマン(学習院教授)は25円、谷口秀太郎(一高教授)15円、東儀季治(鉄笛)書記は20円であった。鉄笛は、帝国教育会(近衛篤麿会長)での 大村会務監督の部下。京都朝廷雅楽師の出。獨協校歌の作曲者・東儀俊龍はやはり雅楽師の出、鉄笛のあとをうけ明治39〜大正4年に獨協音楽教師だった。鉄笛は獨協と早大に学び、坪内逍遙門下の役者や文芸協会の俳優としても名をあげた。彼の作曲した早大校歌と獨協校歌に近親性があるのは、山県と大隈の仲を考えると皮肉でもあるが、日本近代化の奥深さをも感じさせよう。父・季芳(その後妻は大村の身内)は雅楽の大家で海軍儀礼歌「海ゆかば」の作曲者。 大村の弟、恕三郎も雅楽に入り一流音楽家。このころ大村は東亜経営のため露・中・朝の外語学習の必要を主張、品川の指導で東京外語を再建。
明治32年
(1899)
5月25日 この時まで生徒定員6百人(教室13)であったのを8百名として改正届。教室数が不足であったが、校舎使用方法を変更して増員を計画した。官立中学との施設上、教員給与面での格差が決定的となり、品川大村を悩まし続けた。
6月11日 獨逸語談話会発足、高商講堂(大村の「獨逸語教授法」の和獨両語の講演)。獨逸語寸劇・芸能もあり大盛会だった。
6月末 文部省専門学務局吏員の視察を受ける。現状と届出の相違を指摘された。中学校令にもとずく私学指導の結果である。
10月24日 体操場の設置が認可される。施設の劣悪な私学は厳しい行政指導を受けた。
12月11日 中学規則を改正し、文部省の認可を受ける。当時、新入生は200名ほどで5年の卒業生は50名ほどに減った。
明治33年
(1900)
2月26日 本校創立の最大の功労者である獨協委員長品川彌二郎が午後6時死去、享年58歳。戒名至誠院釈一貫日孜居士。3月3日築地本願寺にて葬儀。会葬者8千名。獨逸学協会学校教職員、生徒一同沿道に整列、教会学校代表断弦(大村仁太郎の悲痛な決意を示す雅号か)、同生徒部長新保寅次、5年生総代5名、交友会村田峯次郎など霊前に痛恨きわまりない弔辞を朗読。彌二郎は松下村塾門下生中でもっとも先師に似た気質と人となりであった。明治期獨協生に与えた影響は大きい。獨協教育の生みの親である。
4月 牛込区白銀町に本校分教場を設け、第一年級の生徒を収容して授業した。
6月5日 20年代を通じて校務の実質的責任者の幹事大村仁太郎は5月14日、みずから学校代表者変更願を出し、この日認可。
9月 隣接の西小川町1丁目2番地(532坪)を体操場用校地として購入した。しかし以降も体育や野球は北の三崎ヵ原で行う。
10月 外語教授山口小太郎と一高教授藤代禎輔(のち京大教授)および巌谷小波ら獨協関係者がドイツ留学。
10月4日〜7日 5年級は日光方面、4年級は箱根に修学旅行。3年級は鎌倉、2年級は稲毛、1年級は大宮方面に遠足した。この年、旧制一高(現東大)入学者は獨協42名で全国一位、二位は府立一中(現日比谷高)30名。三位開成中22名であった。
明治34年
(1901)
3月6日 獨逸学協会学校の別科(白銀町19番地校舎)の設置が認可される。修学2カ年で中学に入ることのできない者や、実業に進む者のための教育を目的とした。午後3時半から8時まで授業。山脇玄の妻、房子の山脇女学校が生まれたのは、明治36年4月。この獨協白銀校舎を借用した。明治32年の高等女学校令、私立学校令をきっかけに不振の白銀分校の活用法として谷口山脇らが日本婦人の向上運動を女性職業教育に主張をもっている房子を校長にして獨協女学校のつもりで出発しようとした。(大村長衛は明治20〜27年に牛込で芝玉女学校を経営しており、大村人脈は女子教育に関心があった)。
3月12日 本校附属の各種学校として獨逸学協会学校獨逸語専修科(責任者は谷口秀太郎)を設け認可される(ドイツ語篤志家のために)。生徒は一高生や陸軍将校、官吏、軍学校生徒であった。正科は2カ年とした。午前8時から午後3時まで授業。
4月4日 獨逸学協会学校獨逸語専修科を本校附属獨逸語専修学校と名称を変更した。同校は谷口の指導・経営により出身年まで存続。
4月6日 学習院教授(本校代表者、幹事)大村仁太郎、横浜港より獨逸船にて渡欧。谷口秀太郎(陸軍学校教授)がその職務を代行。
5月26日 獨協野球部、慶応義塾と試合、7対6で勝つ。
6月5日 陸軍教授司馬亨太郎を責任者(会長)として、各種学校の私立正則獨逸語講習会の設立を認可された。校舎は神田区裏猿楽町9番地、本科は3カ年、受験料(中学卒業者)は1カ年である。
10月24日 学友会口演部大会が盛大に行われる。大会は年2回。獨逸詩・劇作の暗唱や時局論・青年論が多かった。
11月30日 学友会野球部が早稲田大学と対戦、敗れる。
12月5日 本校舎が不審火で夜10時10分に火災に罹り、校舎、書庫等を全焼。伊藤博文より贈られた校旗もまた焼失したと伝えられる。焼失家屋合坪数691坪、概価21,750円。当夜の宿直小使は岡崎仙太郎と菅格蔵。被害額は図書を入れると4万ほどという。
明治35年
(1902)
2月 本校に近い神田三崎町の日本法律学校(現日本大学法学部)の一部を借り受け牛込の分校と相通じ、各組の合併授業を行う。大村幹事留学中のこととて、加藤平田山脇ら主脳は協議の結果、 現校地(小石川区関口台町16番地、長閥の子爵鳥尾小弥太陸軍中将所有)を購入。西小川町の校地売却代金や火災保険支払金や財界人馬越恭平等の助力を得て新校舎を新築。この急迫時に山脇幹事の献身は大きかった。平田は政治で多忙、加藤は動揺し手を引きたがった時に、山脇が頑張り、 谷口がそれを助けた。
 大村は多く滞獨中にこの悲報に接した。ドイツ皇帝ウィルヘルム二世に謁見した節、図書、物理化学の実験教材など多数の贈与を受けた。同国内の有志から教材、図書の寄贈があった。大村は多くのギムナジウムを参観し調査して獨協再生の準備をした。
10月13日 獨協野球部、一高と闘い15対13で敗れる。ボート部は浮島・興津・清見の3艇を入手、隅田川で他校と闘った。
11月8日 獨逸学協会学校は小石川区関口台町16番地へ移転の届出をした。敷地2017坪、建物木造瓦葺二階建、延べ861坪。
11月29日 校舎竣工、新築落成式行われる。教員数41名、生徒数、普通科745名、補習科120名。ドイツ帝国Dr.Heinrich Venn(大村の知友)より大理石壁面(日獨永遠の友情が獨協学園を通じて実ることを祈念)の寄贈をうける。
明治36年
(1903)
4月 神田区西小川町1丁目2番地(旧校舎裏で獨逸語専修学校跡)に新築の分校校舎落成。別科と専修学校はともに移った。同月、牛込区白銀町の分教場を廃した。4月30日、文部大臣より分校(定員300名)設立の認可を受ける。東儀鉄笛が分校主事。
6月16日 幹事大村仁太郎がシベリア鉄道経由で山口小太郎らとともにドイツ留学から帰国。学習院(近衛篤麿院長)内の改革派(獨逸派・谷口山口、白鳥庫吉、市村賛次郎、松井簡治、村田祐治、高島平三郎、芳賀矢一[校歌作詞校訂者、国文学者]ら)の指導者である大村は、院長代行の細川潤次郎(土佐藩閥)ら保守派(英学派)のために帰国を機会に退職強要を受け追放された。
9月 加藤弘之(帝大総長)が校長を辞任し、代わって幹事大村仁太郎が就任。同時に商議員制度を設け、伯爵桂太郎、男爵加藤弘之、男爵平田東助、法学博士ドクトル山脇玄の4名を商議員に依嘱、校長の最高諮問機関とした。 旧制一高第三部(医学部)合格者44名中、35名は獨協生。当時は学習院・一高・外語と獨逸語連合会を毎年、高商講堂などで開催。大村はボート新3艇を購入、力を入れる。
10月6日〜9日 修学旅行が日光方面、甲州方面、函山(箱根)方面と、それぞれ学年別に実施される。
10月17日 学友会剣道部大会が行われる。大村の知徳体の三育は徹底的だった。30年代は獨協教育の確立期といえる。
明治37年
(1904)
6月28日 設立者やま・大村仁太郎の両名より財団法人申請書を改正学則とともに文部大臣宛に提出。翌月認可を受ける。大村の留学成果の一つである貴族師弟教育改善の提言は、宮廷保守派の平田らに抑圧された。
7月28日 大村仁太郎が理事に、山脇玄が監事に就任。この前後、大村は校長および著述家として大活躍。このころ歴史担当教師の津田左右吉は「こんなことをしていると日本はいまに袋叩きにあうぞ」と獨協生に講話していたという。
11月5日 対一高戦で獨協野球部5対15で大敗。明治後期の獨協は野球・ボート・柔道・剣道の全盛時代で、進学も超一流校。
明治40年
(1907)
3月21日 第16回卒業証書授与式挙行。来賓総代・山脇玄(行政裁判所長官)が訓辞。卒業生109名。大村の糖尿病が悪化。
6月5日 初期獨協の大功労者で獨協育ての親ともいえる校長大村仁太郎が急死、享年45歳。戒名台祐院殿仁徳日解居士。少年天野の人物を発見し育てた教育者であり、教育評論家としても世評は高かった。息子、謙太郎は東洋史家、獨協中学でも教えた。次第、高田善次郎は獨協・学習院・陸大の獨逸語教授、三弟は音楽家、妹茂子は文博白鳥庫吉の妻。村田祐治一高教授の妻は大村夫人の妹。8日午後、雑司ヶ谷墓地で盛大な葬儀が獨協生中心に営まれた。18日、帝大教授理博、石川千代松がとりあえず新校長に就任。
7月 石川校長辞任。東京帝大教授の理学博士・薬学博士、ドクトル長井長義(夫人はドイツ人テレーゼ)が後任となる。
9月19日 財団法人寄附行為改正が認可。長井校長と教頭谷口秀太郎が理事に就任。教育、財政の重要事項協議のため評議員制度を定めた。桂太郎加藤弘之平田東助山脇玄の4名を常置委員とした。
明治41年
(1908)
7月7日 神田区西小川町の分校を廃した。校舎は大正2年2月20日の神田大火の時に、谷口の紹介で数学教育にて明治初年から有名だった猿楽町の上野塾の後身、東京中学(現東京高校)に仮校舎として貸し出され、続いて土地家屋一切を3万5千円で売却した。獨逸語専修学校は逆にこの校舎をその後は5カ年5千円で借用することになった。
11月22日 獨逸学協会学校創立25周年記念祝典を挙行。大隈伯爵・伯爵をはじめ朝野の名士を招く。駐日ドイツ大使フォンシュワルツェンシュタインはとくに祝辞をのべた。生徒代表が獨逸語にて答辞をのべるや、大使は欣喜してその手を握り、感激のあまり落涙したと伝えられる。巌谷小波、大町桂月ら創立期の同窓生が活躍した。『25年誌』(本誌・名簿ともに55頁)刊行。
明治43年
(1910)
5月 加藤弘之は財団評議員の任期満了を機に辞任。代わって子爵青木周蔵が就任。
6月 ドイツのヘンデル出版書肆よりドイツ語書籍が多数寄贈された。このころまで旧制一高に推薦入学2名の枠を持つ。
明治45年
(1912)
5月17日 校則を改正し文部大臣の認可をうけた。9月に剣道、柔道を準正科とした。
大正元年
(1912)
9月13日 明治帝の大葬。獨協生代表20数名が校旗を先頭に二重橋前に暗夜参列、お見送りした。
10月 財団法人の寄附行為を改正し理事および監事の任期を7カ年とした。この年、教職員数34名、生徒数527名であった。
大正2年
(1913)
10月11日 元校長公爵桂太郎が死去。獨逸同学会創立者の一人で、帝国陸軍のドイツ流近代化や日露戦争(首相)や韓国併合に尽力。大正デモクラシー運動の激しい標的となった。「お鯉物語」と軍閥の故に民党と新聞の批判攻撃を受け、獨協への偏見を生む一因ともなった。国葬が行われ、獨逸学協会学校教職員、全生徒その葬儀を送る。獨協高等工業専門学校の企画が消失。
大正3年
(1914)
2月16日 商議員青木周蔵が死去。享年70歳。品川の無二の親友で日獨交流の始祖(夫人はドイツ人エリザベト)。獨協生を心から愛護した。獨逸大使を2回、17年間も勤めた。長閥であり、その反大隈は有名である。ドイツ流近代化の指導者・国際人として忘れてはならない人物。日本の国権を高めた条約改正の最大の功労者の一人で終始、山県のブレーンだった。
大正4年
(1915)
10月 御真影(崇拝用の大正天皇肖像写真)が下賜された。大正前期の獨協は野球・陸上・駅伝・剣道の最盛期。
大正5年
(1916)
2月9日 元校長加藤弘之男爵が死去。日本最初のドイツ語学習者の一人で、西周と並ぶ明治期の啓蒙学者官僚であり、晩年は枢密顧問官。本校の恩人・大村仁太郎の後見役。次子、加藤晴比古は明治28年卒の同窓生。長子は照麿(獨協監事の成之の父)である。娘は山県の嗣子、伊三郎(品川平田らの妻の弟)の妻。このころから数年間は学校経営不如意となり教員給与の遅配まで生じた。
大正6年
(1917)
1月22日 東京外語教授、山口小太郎(「獨逸語学雑誌」主筆)が脳溢血で急死。享年51歳。東京外語と東大に学ぶ。明治36〜大正5年は獨協教員。一高・学習院の教授を歴任。カントやニーチェの最初の紹介者。獨逸教育学書の翻訳と研究も高名。獨逸語を通して日本の知識青年に与えた影響は大きい。娘婿はマルクス経済学者でドイツ語原書を獨逸語専修学校でも教えた櫛田民蔵である。
大正7年
(1918)
10月 獨協専修科出身の高級官僚、有松英義を商議員に推した。有松を理事長に協会学校後援会(専修科卒中心に17名発起人)が生まれ、日本人のドイツ離れと経営危機を必死に克服しようとした。352名から14万円の募金申し込みを受けた。払い込み金は10万4千円に止まる。大正9年〜昭和6年の恐慌と不景気の時代の支出に充当。そのために有松構想にあった旧制7年制高校への昇格も消えた。
大正9年
(1920)
7月 校長の長井長義が募金の任にあらずと辞任。新たに医博金杉英五郎(慈恵会医大学長)が就任、同時に長井を名誉校長に推す。欧州大戦中、日本は大英帝国にならい獨逸を敵として参戦した。青島攻略や南洋諸島接収は日本国を一流国にのしあげた感銘を国民に与えた。獨逸語志望者は漸次減少。戦後恐慌で9年度総数450の退学者が明治末の倍の75名に。生徒志望6名をもたらした関東大震災後の無届欠席・授業料未納除籍者は24名に達した。12年度の全退学者は死亡・転学・4年進学を含め87名を数えた。
大正13年
(1924)
4月1日 学則の一部を変更し英語科を併置した。英語を第一語学とする受験界と時流に対応せざるをえなくなったことと、社会風俗も米英流に向いてきたからである。ドイツ学者、谷口理事の果断であった。
大正14年
(1925)
4月14日 商議員兼評議員の伯爵平田東助が死去。品川なきあとの獨協委員長で奥の院的な存在。獨逸留学時はブルンチュリの弟子。3万5千円で校舎を大修繕した。ゾルフ・ドイツ大使と三井東神倉庫常務奥村久郎が知人三井男爵をくどいて3万円の寄附金を獲得。司馬教頭、行政裁判所を判定官の松本安正や安田糸重役斉藤洵、関東長官大内丑之助ら専修科卒業生の献身が大であった。
10月 専修科卒の武内常太郎(大日本麦酒常務)の紹介で馬越恭平(三井物産で大をなし大日本麦酒社長として成功、十数社を経営)と専修科卒の一宮鈴太郎(横浜正金銀行副頭取)を商議員に推した。理事谷口秀太郎が辞任、後任として司馬亨太郎(教頭)が就任。駐日ドイツ大使ドクトル・ゾルフを名誉商議員に推す。教頭退職後の谷口は嗣子と日獨書院の経営に専念した。
10月7日 商議員山脇玄が死去。享年77歳。夫人の房子ともども近代日本の男女中等教育の功労者であった。藩閥流に押されて地味な存在であったが、近代化の法典整備と日獨交流および獨協の創立・護持・目白移転など大正期までの発展に尽くした功績は大である。
大正15年
(1926)
10月 ドイツ政府より毎年一万マルク寄贈(ドイツ人教員費用)の旨が通達された。金杉博士が斡旋された結果である。
昭和2年
(1927)
4月 ドイツ政府はヤコプ・ザールを本校講師として派遣、ドイツ語学を担当。この年、生徒数は663名。
7月11日 獨協の名物ドイツ語教師(明治41年〜大正13年)だったエミール・ユンケル急死。明治19年来日以来、旧制一高、粕壁などで働く。彼はハリール一高教授(大正3年獨協教師)と同様「獨逸語学雑誌」の主要寄稿者だった。
10月 金杉博士が理事および校長を辞任した。後援会理事長となる。翌年、山本悌二郎、小山松吉、奥村久郎が商議員に推された。
昭和4年
(1929)
2月13日 商議員・名誉校長のドクトル長井長義が死去。ドイツ留学9年、夫人ともども日獨親善に尽くした。
5月 幕末・明治初年の語学の天才、司馬凌海の息子で、ドイツ語教育の雄である教頭司馬亨太郎金杉校長に代わり校長に就任。金杉英五郎は商議員ならびに名誉校長に推された。ドクトル・フォーレッチが駐日大使となる。新大使を名誉商議員に推した。
 港区芝田村町飛行館4階鳩ノ間に獨協同窓生有志が「獨協クラブ」を設けた。毎月1,6の日を選び午後から会合。校長、教職員もこれに合同交歓する。武蔵、成蹊、成城のような7年制高校や工業専門学校の構想が暖められた。
昭和6年
(1931)
11月21日 獨協同窓会総会、84名出席。獨逸語談義や銘々の専門に関する所感や獨協時代の懐旧談を語り合った。この年、全生徒数は獨逸語科350名、英語科162名。吹き荒れる昭和恐慌はとくに中産階級に打撃を与え、中途退学者は昭和3年度102名、4年度78名、5年度98名、6年度89名に達していた。
昭和7年
(1932)
5月26日 斉藤実内閣、商議員小山松吉(検事総長)が司法大臣に就任(小山は獨協専修科出身の高級司法官僚、明治末・大正・昭和初年の左翼弾圧で有名)。名儀的ではあったが昭和10年代に校長として君臨、獨協のイメージを固定した。
 50年事業として額田豊(日大医学科長)の発案の化学実科学校と小笠原昌斎(ドイツ語教師)や中村健一郎(彦根高商校長)らの発案の医科大予科と法経大学の構想が、このころ真剣に討議されながら、昭和15年戦争の激化で消えていった。
昭和8年
(1933)
6月14日 獨協主催の演芸(ドイツ古典劇とザールのテナー独唱)と映画(制服の処女)の会を日比谷公会堂で開催。
10月22日 本校創立50周年祝賀式典を神田一ツ橋教育会館講堂にて挙行。金杉名誉校長司式。獨協同窓会、日獨協会、日獨文化協会をはじめ関係各方面より多大の祝賀を寄せられる。労作『獨協五十年史』(本誌74頁、名簿111頁)刊行。
昭和9年
(1934)
2月20日 司馬校長は福島嘱託の起草にかかる財団法人の寄附行為改正案文をもって、芝田村町飛行館会議室に改正委員会(会長金杉名誉校長)を開催。即日小委員会に原案の審議を附託す(小委員長元大審院検事吉田鐐作)。3月申請、12月に認可。
3月 獨逸大使フォン・ジルクセンを名誉商議員に推した。日本のドイツブームは昭和9年来である。
昭和10年
(1935)
5月16日 商議員制を廃止、新たに小山松吉、松本安正、守屋荒美雄、額田豊司馬亨太郎(校長)の5名が理事に就任
6月1日 旧校舎校長室に第一回理事会を開き、互選の結果、小山が理事長に推された。ついで下記28名に評議員を依嘱した。足立謙吉、池田泰雄、岩田正道、岡本芳次郎、呉建、小池重、小山松吉、郷昇作、島安二郎、谷田三郎、中村健一郎、永井潜、額田豊、深水貞吉、福島博、藤浪剛一、松岡常吉、松本安正、丸山通一、三瀦信三、宮下左右輔、森孝三、守屋荒美雄、山口弘三、山田準次郎、吉岡正明、吉田鐐作、遠城保太郎、この前後、ドイツ映画「会議は踊る」、「未完成交響楽」などが青年をひきつけた。
6月21日 芝田村町飛行館会議室に第一回評議員会を招集。評議員のなかから吉田鐐作、藤浪剛一両名を監事に推し、山本悌二郎、金杉英五郎、一宮鈴太郎の3名を顧問に推載した。
7月25日 評議員福島博に財団法人の運営に関する事務を嘱託した。以後、福島は獨協史の生き辞引となる。
昭和11年
(1936)
2月11日 校長兼理事、獨協同窓会長、司馬亨太郎が東京帝大病院にて死去、享年74歳。13日、小山理事長が校長事務取扱に就任。
2月15日 司馬校長の校葬を執行。ドイツ大使、日獨協会、日獨文化協会、陸軍大学関係ならびに同大学卒業の陸軍将星ら多数参列。
3月 校長室に理事会を開き、小山額田、守屋の3理事が出席。小山校長事務取扱(法大学長)が校長になった。
7月 隣地1,251坪(関口町192、島尾敬光子爵邸地)を9万5千円(銀行負債の20カ年償還)で購入。
8月 獨協父兄会創立の機が熟し、その創立総会を麹町内幸町レインボーグリルに開催。評議員小池重が推され初代の会長に就任。
9月 獨協同窓会、獨協教職員一同ならびに獨協を後援される人々が相はかって「司馬亨太郎先生追慕記念会」を創設。学校内に於けるドイツ語の奨励向上、ドイツ文化の研究と普及、ドイツ文化室の設置等々を企画し、入沢達吉博士ら多数の後援を得て基金募集を行う。公債を購入、その利金を毎年卒業生中、ドイツ語の成績優秀なるものに「司馬賞」として贈ることになる。
昭和12年
(1937)
1月19日 獨逸巡洋戦艦エムデン号来日、7百の獨協生は靖国大社へハーケンクロイツ旗を振り出迎え。
8月3日 従来の獨逸学協会学校中学は獨逸学協会中学校となる。
12月24日 谷口秀太郎死去、享年74歳。三重県の熊野灘に面する引本村医家の出身。三重県医学校から大村父の訓蒙学舎に入り、東京外語で仁太郎と同窓だった。陸軍大学教授で、山口亡き後「獨逸語学雑誌」の輝ける主筆だった。経営の才ありドイツ語教育中心の精華書院(日獨書院)を育てた。40年近く(明治18〜大正12年)獨協に働き続け、人間的にも獨協の重心。小私学を支えてきた功労者であった。娘婿二人(脇屋義人、由木康)は神学者、賛美歌作詞家の牧師。長女婿は浜田三郎、獨協出、厚生年金病院長。
昭和13年
(1938)
2月 小山理事長・額田理事に加え加藤晴比古・吉岡正明が理事に就任。8月に生徒定員1千名に増加申請して認可される。
9月 新たな評議員は同窓生である加藤晴比古、小立鉦四郎、佐々木隆興、坂口康蔵、塩沢達三、田村憲造、武者小路公共。
9月27日 来日中のヒットラーユーゲント代表を本校に招いた。小山校長が歓迎の辞を述べ、記念品として武者人形を贈呈。式後、講堂に5年生生徒との茶話会が催され、傍聴者は堂外にあふれる盛況であった。ヒットラーの民族・国家・戦争の美学と使命観は反英米と反共反蒋に興奮した日本国民と青少年に大なる影響をもった。後と先を考えぬ不幸な時代のつかの間の感激であった。
10月 獨協同窓会長永井潜が台北帝国大学医学部長として就任し、会長を辞任、代わって理事加藤晴比古が獨協同窓会長に就任。
昭和14年
(1939)
1月15日 新校地に建造中の校舎(延207坪)落成、中学1,2年の生徒を収容。新校舎建築費3万円は原田積善会が寄附。
7月5日 獨協同窓会は日獨文化協会、日獨協会、母校後援の下、午後5時より上野精養軒に大村谷口山口の3先生の遺影を招き、「三太郎先生追悼会」を催す。実行委員180名、ドイツ大使はじめ朝野の名士多数参会、極めて盛況。当日、大村の義弟で津田左右吉(明治末の獨協教師、後に早大教授)の師である白鳥庫吉や鈴木為雄、松室重行執筆の三先生を略伝を来会者に贈った。
9月 文部次官通達により、入学に際しての筆記試験は一切中止された。もっぱら内申書の総合判定による考査が実施されることとなる。
11月10日 「獨協同窓会報」第一号発刊。このころ東上線大山に学校農場(一町歩)を労作教育として経営。
昭和15年
(1940)
3月 欧州におけるナチスドイツの「興隆」や、マスコミにおけるアングロ・サクソン文明への批判の高揚、日中戦争の拡大などの「時局」柄か、ドイツ語を志望する者極めて多くなった。200名の定員に対し、入学志願者1,360名に達した。(昭和9年度の入学者148、11年158、12年256名)。この頃は「三太郎」に代わり関口存男の「ドイツ語」雑誌が流行した。
10月12日 生徒定員1,000名を1,250(1学年250名)に変更認可。昭和十年代前半は獨協第二の高揚期となった。
昭和16年
(1941)
2月18日 品川の下にあって協会学校設立の準備にあたった功労者、平塚定二郎死去。東京外語で大村仁太郎の同窓。外語・獨協・一高のドイツ語教師をしたが本業は会計検査院部長。女性解放運動のらいてうは娘。
9月21日 ドイツ政府派遣の外人教師ヤコプ・ザールが死去。在職14年8ヶ月。多彩で真剣な語学教育と通勤用のオペル車は全生徒のあこがれであった。同25日麹町番町カトリック教会にて葬儀執行、オット・ドイツ大使を始め関係方面多数参列。学校より加藤理事、教職員、生徒代表、同窓会総代が参列。その後未亡人ゲルタ・ザール夫人が代わってドイツ語の教鞭をとる。
12月8日 大東亜戦争初戦の快勝に教室中がわいた。教員も生徒も米英撃滅の声、高く、戦意はいやが上にも高揚した。
昭和17年
(1942)
1月26日 専門の耳鼻咽喉科はもとより教育から政治・会社経営まで幅広い活動をした自由主義者金杉英五郎(貴族院議員)が死去。この年、学習と訓育の指導効果は確実にあがったという。少年達は白色帝国主義のアジアからの排除と神国日本不滅の実践に酔った。
昭和18年
(1943)
1月28日 学制「大改革」が公布され、中学校の修業年限が4年に短縮、上級生徒はいずれも軍事目的に学徒動員される事となる。近郊農村の援農合宿も行われた。近視的にいえば労学融合は青少年の心身にさわやかな刺激をもたらし視界を拡げた。習志野や富士山麓の軍事教練や建物疎開手伝い(首都防火のための密集住宅街の破壊撤去作業)も、戦火のきびしさの中で、それなりの青春の歓びと友情の深まりを感じとらせた。敗戦までの全入隊者は14年度入学生中13名、15年32名、16年17名、17年5名。
昭和19年
(1944)
6月 中学4,5年生徒に長期勤労動員令が下り、以後全学年の学業停止。都内北部の陸軍兵器補給厰や民間軍需工場に動員され、銃後の勤労に全力を投入した。前線の兵を想い、少年達はひたすら忠君愛国、滅私奉公の精神に燃え立って働いた。個人で少年航空兵などに応募し、帰らぬ獨協生が幾人も出た。工場災害で重傷を受けたり、空襲で殺された生徒も2,3に止まらなかった。
昭和20年
(1945)
5月25日 翌26日未明にかけて山手一帯が米空軍の大空襲を蒙る。交代夜勤中の教職員と当直の生徒一隊は迫りくる猛火の消化に努め、ついに校舎および附属図書館等を灰滅から守る。徹夜消防の指揮に当たった奥田八郎教官の自宅は当夜全焼したが、これを省みるいとまもなかった。功労者、奥田は戦中の名物訓育教官であり、戦後は同窓会の嘱託となり、親しまれた。小山邸は焼失。北海道の疎開先より職務の辞意を表明した。学校教務は田村教頭に一任。このころ目白台は要塞化、獨協には海軍部隊が駐屯。
8月15日 「終戦」の詔勅。下級生は炎暑の校庭で、上級生は動員先で聴く。生徒数十名は三々五々、目白台の学園に集まり、教職員の話を聴き、善後策を論じ、解散した。日独伊は世界民主連合国に完敗した。大日本帝国とドイツ第三帝国の勝利を確信していた日本国民、とくに青少年は一時虚脱状態となった。家を焼かれ、父や母を失い、就学継続が不可能になった獨協生も多かった。
主要参考文献 国立国会図書館(品川・井上・平田ら関係文書と「学林」)や国立公文書館・都立公文書館(学校教育届出関係書類)や国学院大学(井上毅文書・雄勝堂フィルム)および『獨協百年』全5冊と獨協大学・獨協学園中高校(「協会雑誌」「語学雑誌」「七十五年年表」)などに依拠。また大久保利謙編『西周全集』(宗高書房)、 『鴎外全集』(西周北白川の伝記)(岩波)、田中梅吉『日独言語文化交渉史大年表』、大塚三七雄『明治維新と獨逸思想』復刊、大村仁太郎文書(百年史編纂室蔵)などを校勘。その外『東京高校史』、『東京高校百年誌』、『山脇学園六十年史』、徳富蘇峰『公爵桂太郎伝』(原書房復刊)、 村田峯次郎[校友]『品川子爵伝』(大日本図書)、奥谷松治『品川彌二郎伝』(高揚書院)、加藤房蔵『伯爵平田東助伝』、徳富『公爵山県有朋伝』(原書房復刊)、『明治史要』、『明治政史』、瀧川政次郎『日本歴史解禁』、北大図書館(協会雑誌)、 京大図書館(品川関係文書)、東大百年史編集室(加藤日記)などを参照。一般年表としては児玉幸多『日本の歴史年表』(中公)、『近代日本総合年表』(岩波)、遠山・安達『近代日本政治史必携』(岩波)、『カラー世界史百科』(平凡社)を利用。
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