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大村仁太郎の活躍 (2)
大村のベストセラー教育書(明治40年5月の語学雑誌広告)。宮廷王子教育法や学習院改革に挫折し排除された大村は、そのもてる精力と問題意識を獨協教育と著作活動の中にすべて投入して、明治40年6月の急死を迎えることになる。 獨協の教育実践書を翻案して明治の日本人向けに流麗な文章で綴った大村の創造的な教育書は、読書界に受けた(明治38年2月の語学雑誌広告)。
貴族子弟教育の近代化と「庶民化」と真剣に考えた大村は、獨逸の近代教育法(三育)を吸収し、日本の宮廷と貴族家庭や学習院にも取り入れようと努力していた。
死の3年前に一読者宛でしるした大村の半生の仕事の総括。貴族院や大学アカデミズムの右派・主流に包囲され孤立していた帰国後の自信と狷介がのぞいている。

 ▲伯林日本大使館での天長節集会(明治35年11月3日)。
▲ 大村の明治青年を意識した独文註釈の例(明治37年11月、語学雑誌)。日露戦役中にこのドイツ人の戦争論は、知識人青年に国権と合理、国家協同体の重味を問わず語らずに教示した。
ベルリン和獨会パーティー(1902年4月3日)
[ Zur Erinnerung an das Tokyo-Fest der Deutsch-Japanischen Gesellschaft "Wa-Doku-Kai"in Berlin ]
後列左から松平、フェン博士、前列右から2人目芳賀、2列目和服は巌谷、隣りは大村
大村先生の遺稿集
(明治40年出版)。
獨逸ギムナジウム風の獨協校長室にて。大村は教師陣を充実した。地理・守屋荒美雄、国語・芳賀矢一・志田義秀・林敏介、歴史・津田左右吉、音楽・大村恕三郎・東儀鉄笛・東儀俊竜、生物・丘浅次郎、獨逸語・三並良・高田善次郎・小笠原稔(獨協卒)・谷口秀太郎・武内大造・国吉直蔵、修身・山口小太郎(獨逸語)高島平三郎、理科校医・広瀬益三(獨協・東大卒)、美術・木元平太郎らであった。
明治40年3月の修業式(目白校舎)。中央が予想以上にやつれた大村。死の9週間前である。右隣が谷口教頭。円内は第5代校長・石川千代松(理博・帝大教授)。
「三太郎」先生(大村山口谷口)追悼会
(昭和14年7月5日)。
最晩年の大村先生一家。縁側でくつろぐ。左から民子、芳子、夫人、豊子、大村(最後の遺影)。
「三太郎」先生追悼会を報ずる「獨協同窓会報」(昭和14年11月10日刊)。 大村先生遺子の成長した姿。左から川崎豊子、同愛之輔、大村むら子未亡人、大村謙太郎(史学会幹事)、芳子、民子(昭和10年か)。
「三太郎」先生追悼会出席の来賓。佐々木隆興(杏雲堂病院長、京大教授、文化勲章受賞)、白鳥庫吉(東大教授)、市村賛次郎(東大教授)、武者小路公英(ドイツ大使、日独協会長)佐藤恒丸(陸軍軍医監、獨協中退)、オット・ドイツ大使、ブラウン・ドイツ大使館書記官、小山松吉(検事総長、法大学長)、加藤晴比古(同窓会長、鴻池銀行重役)、坂口康蔵(東大医学部教授)らの顔がみえる。 大村の死を記録した加藤弘之日記(明治40年6月6日、東大百年史編集室蔵)

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